私たちに制服が2着あるわけ 広島朝鮮学校が高校無償化の適用を求めた裁判が、最高裁で上告棄却された。日本政府の明かな差別を司法が認めたことに、心底怒りがこみ上げてくるので、緊急的に何回かに分けて投稿します。初回は、2019年2月に赴任地の広島にある広島朝鮮学校で見た「一人芝居」の記事です。【一人芝居「チマ・チョゴリ」を見て】 「私の名前はカン ハナ。朝鮮学校に通う高校3年生。私たちには、制服が2着あります。」。舞台に立つのは大阪朝鮮高級学校3年生の姜河那さん。姜さんのお母さんの物語、近所に暮らす在日コリアンのおばさんの物語など、民族衣装のチマ・チョゴリにまつわるエピソードを1人で十数役演じていました。 20年以上前、日本各地で多発した「チマ・チョゴリ切り裂き事件」はまだ記憶に新しい人もいるのではないでしょうか。登下校中の朝鮮学校女子生徒の着るチマ・チョゴリが何者かに切り裂かれるというもの。どれだけ怖いか、どれだけ孤独だったか。これを期に、朝鮮学校では「第2制服」を導入しました。登下校中に着るブレザーなどの制服、そして「ウリハッキョ」(朝鮮学校)についたら着替えるチマ・チョゴリ。よく「かわいい制服の高校に行きたい」と、制服で高校を選ぶことは最近の女子高生の傾向でもありますよね。なぜチマ・チョゴリで登下校できないのか。自分たちが着たい服を着れない社会は、表現の自由がない社会ではないでしょうか。 姜さんは、迫真の演技で、喜怒哀楽を丁寧に表現されていました。とても18歳とは思えない…。初めて舞台に立ったのは4歳のとき、演劇をしているお母さんの影響で演技を始めたそうです。 「チマチョゴリ」の台本ができてからは、授業が終わってから、夜遅くまで練習をする日々。「1人でするから、孤独感や不安もあった。台詞を覚えるのも大変だった」といいます。10人以上の役を演じるから、それぞれのキャラクターに合わせて「表情」を変え、それぞれが抱える「悩み」や「葛藤」を表現するようにしたと話してくれました。 「在日朝鮮人を誤解している人が多いと思う。普通の日本人学生となんら変わりない生活をしているけれど、北朝鮮で何か起きたとき、標的にされるのは学生たち。母親たちの世代が、なぜ命を危険にさらしてまで、チョゴリを脱がずに着ていたのか。その意味は何かを、演技を通して伝えたい」と姜さん。卒業後は、韓国・ソウルにある専門学校で演技の勉強をして、将来は女優を目指すそうです。「日本と朝鮮半島を、演技を通してつなげる存在になりたい」と話すまなざしは本当にまっすぐでした。 いま、姜さんが韓国にいるのだろうか。あの時話してくれた夢を追い続けているのだろうか。また会って話したいな。 広島朝鮮学校が高校無償化を求めた裁判は、最高裁で上告棄却となりました。毎月19日には、生徒や教員が街頭にでて署名活動やビラ配りをしていました。本当はしなくていいことなのに。貴重な学生の時間なのに。友達とおしゃべりしたり、買い物にでたり、まちを歩いたり、お茶したり…できるはずの時間。 知ってほしい。少しでも関心を持ってほしい。無関心も「差別」に加担していることではないだろうか。 あ、この一人芝居、見たい人はDVD貸すので連絡ください!大瀧哲彰2021.07.30 05:49
住民が止めた原発:9完)「芦浜原発を止めたまち」 福島の事故が与えた衝撃原発がなくて良かった 「芦浜に原発がまた来るらしい――」 そんな話が南伊勢町古和浦地区に広まったのは、2011年3月に起きた東日本大震災の前月のことだった。かつて中部電力の芦浜原発建設計画に反対していた住民たちは、ピリピリしていた。 まもなく、その話とつながる事実が判明する。 この年の2月24日に中電が打ち出した原発の新規立地方針の公表前に、三重県の自治体に事前説明をしていたのだ。具体的な地点は示されなかったが、芦浜の計画の歴史を知る住民たちの頭には、すぐに「芦浜」の2文字が浮かんだ。 さらに同じ年の3月11日午後4時には、古和浦漁協で集会が予定されていた。反対派住民だった磯崎淑美さんは、芦浜原発を再誘致するための集会だといううわさ話を耳にしていた。「どっかで事故が起こらないと、芦浜が本当に止まることはないのか」。そんな思いさえした。 だが、事態は急変する。漁協の総会のわずか1時間ほど前、東日本大震災が起き、総会は流会に。東京電力福島第一原発の事故も起きたことで、芦浜原発再誘致の話は消えた。 * 福島の事故は、かつて原発を推進していた大紀町の関係者にも衝撃を与えた。 「自分なりに信じていたものが崩れた瞬間だった。反省したというか……」。そう振り返るのは谷口友見町長だ。原発の視察は62回に上り、自分の目で見て安全だと信じてきた。「電力会社でも自然災害には勝てなかった。放射能の怖さを実感した」 主婦の谷口都さんは事故のニュースを伝えるテレビ画面を直視できなかった。「原発が崩れているのを見たくなかった。自分が信じてきたものが否定されているようだった」 それでも、胸の内に消えない思いを抱えているのも事実だ。「あのとき原発が来ていたら、町の暮らしも良くなっていたかも」 一方、かつて旧南島町で反対を訴えた歯科医師、大石琢照さんは地震が起きてすぐに、福島に原発があることが気になった。嫌な予感は的中し、事故は現実のものに。「芦浜に原発がなくて良かった」。心の底からそう思った。 * 芦浜原発計画が白紙撤回されてから5年後、近隣自治体と合併し、候補地だった南島町は南伊勢町、紀勢町は大紀町になった。いずれの町も、人口減少と少子高齢化が進んでいる。 南伊勢町には、南島町時代に建てられた石碑がいまも残る。「芦浜原発を止めたまち」と刻んだ大きな文字に続き、37年に及んだ混乱の歴史を伝える。かつて住民たちが経験した苦悩を再び繰り返さないために。=おわり(大瀧哲彰)2020.10.25 08:34
住民が止めた原発:8)地元紙ただ一人の記者 原発マネーの闇スクープ原発マネーの闇を暴く 「『300万円事件』の真相を探る 困惑する紀勢町・中部電力」 原発の建設が計画された芦浜周辺をエリアとする地元紙「紀州ジャーナル」の1977年3月13日付の紙面に、大きな見出しが躍った。紀勢町長が中電側から「機密PR費」として、現金300万円を受け取っていたことを報じたスクープ記事だった。 * 書いたのは、紀州ジャーナルでただ一人の記者だった北村博司さんだ。75年に紀伊長島町議選で初当選して以来、議会活動の広報紙として毎週発行してきた。この「300万円事件」をきっかけに、芦浜原発問題を紙面で取り上げ始めるようになった。 「全国紙の記者は、芦浜問題で何か起きるもしくは起きそうなときにしか取材に来ないし、報道も遅い。それならとことん地元に入り込んで取材しよう」。全国紙とは違う視点で、地元の漁協や住民を取材した。 主に出入りしたのは南島町。3、4日に1度は足を運んだ。推進派、反対派の立場に関わらず、いろんな人から話を聞いた。「人間的なつながりが生まれて、初めて口を開いてくれることが何度もあった」 あるときのことだ。南島町の推進派住民のリーダー格だった男性を取材していた。その途中、男性は机の上にある資料を置いたままトイレに行った。 「わざと置いていったんだと思う」。中電からの預金(低金利の資金融資)の導入に賛同を求めるため、推進派が進める署名運動に関する「趣意書」だった。 裏付けのため、すぐに推進派の関係者に取材した。88年2月6日付の記事には趣意書の写真を付けて、こう見出しをつけた。「中電預金導入が目的か? 署名運動で推進派攻勢」 * 当時の記事によると、この時期、南島町の反対派の漁師たちは、主力の養殖ハマチの低迷で苦境に陥っていた。趣意書には「組合員の生活資金にも事欠き、組合組織さえ危うくなる」としたうえで、「積極に中電の預金を導入することに有る」と書かれていた。 「とにかく原発にはお金が絡む。お金をちらつかせて、生活に困っている人たちにつけ込む。そうして住民たちを翻弄しているのが嫌だった」。北村さんは当時のことを振り返る。 個人的には原発に反対の立場だったが、推進派のことを否定していたわけではない。取材では、なぜ推進するのかを客観的にとらえることにこだわった。 2000年2月、知事による計画の「白紙撤回」要請も取材した。このとき知事が明言を避けた紀勢町の単独立地を念頭に、紙面では「南島の芦浜終結 原発残る」と伝えた。その後、紀勢町での原発計画が具体化することはなかった。 「もう伝えることはなくなった」。01年、紀州ジャーナルは休刊を宣言した。(大瀧哲彰) ◇ 2005年に近隣自治体と合併し、南島町は南伊勢町、紀勢町は大紀町、紀伊長島町は紀北町になっている。肩書は当時のもの。2020.10.20 03:09
住民が止めた原発:7)知事が「白紙撤回」を表明原発、止めてくれてありがとう 「白紙に戻すべきであると考えます」 2000年2月22日、北川正恭知事が県議会本会議で、ついに中部電力芦浜原発建設計画をめぐる態度を明らかにした。このとき180席ある本会議場の傍聴席は南島、紀勢両町の町議や住民らで埋め尽くされていた。 「地元住民は長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を受けていることを強く感じました」「37年間もの長きにわたり、このような状態が続いてきたことは、県にも責任の一端があることは事実」――。発言の途中、一瞬声を詰まらせる場面もあった。 このとき傍聴席に座っていた紀勢町の推進派、谷口都さんは「白紙」という言葉にあぜんとした。「なんと……」。その後の言葉が出なかった。原発推進に燃えていただけに、裏切られた気持ちだった。それでも、知事が紀勢町の単独立地を明確に否定したわけではなかったことに、少しだけ希望を抱いた。 * 南島町古和浦の反対派、小倉紀子さんは、県議会の傍聴に出向いた夫・正巳さん(故人)からの電話を自宅で待った。トイレに子機を持ち歩くほど、知らせを待ちわびていた。 「白紙になった」。電話の向こうで話す夫の言葉をすぐにのみ込めなかった。「白紙って」。最初、その意味が分からなかった。喜びをかみしめたのは、夫が帰宅してからだった。 反対を貫いた古和浦の磯崎淑美さんに笑顔はなかった。「どうせまた裏切られる」と思っていたからだ。原発計画は1967年にいったん「白紙」に戻ったこともあったが、84年に再燃し、南島町は推進派と反対派で二分された。 「知事が代わったらどうせアカンやろ」。そんな冷めた目で見ていた。 * 県議会本会議の終了後、北川知事は別室で南島、紀勢両町長と面談し、自らの見解について説明した。推進の立場をとっていた紀勢町の谷口友見町長はこみ上げた怒りを抑えきれなかった。面談は15分の予定が、35分まで延びた。 「だまされた」。そんな感覚と同時に、「夢が覚めた」とも思った。 この日の午後、中電の太田宏次社長が記者会見を開いた。そして、原発計画の断念を表明。37年間の長い闘争に幕が下りた。 その数日後、南島町で反対を訴え続けた歯科医師、大石琢照さんは、1本の電話を受けた。白紙撤回の前に計画していたデモについて、警察の担当者からの問い合わせだった。デモは中止になった旨を伝えると、その担当者は思いもよらぬ言葉を口にして電話を切った。「尾鷲の漁師の息子として聞いて下さい。原発を止めてくださってありがとうございました」(大瀧哲彰) ◇ 2005年に近隣自治体と合併し、南島町は南伊勢町、紀勢町は大紀町になっている。肩書は当時のもの。2020.10.14 11:02
住民が止めた原発:6)知事が現地入り 反対派の叫び「知事さん、助けて下さい」知事が現地に 「何を言えば響くだろう」 1999年末までの2年半、中部電力が芦浜原発の立地活動を休止する「冷却期間」に入った。この間、県は南島、紀勢両町の状況把握に努め、地域振興のあり方についても検討するなど様々な取り組みを続けてきた。だが、冷却期間が明ければ、何らかの判断を示さなければならない。タイムリミットが刻一刻と近づく中、北川正恭知事が現地に入ることになった。 * 南島町古和浦の反対派住民、小倉紀子さんは家事が手につかなかった。地区の住民代表として、知事に思いを伝える機会を与えられていたからだ。「何を言ったら知事に響くだろうか」。洗濯物を干しながら言葉が浮かぶと、冷蔵庫に貼った裏紙にメモした。 知事が現地入りしたのは99年11月16日。まず南島町に入って、議員や住民、漁協関係者の話を聴いた。 知事の目の前に立つと、小倉さんは頭の中が真っ白になった。緊張がピークに達し、何を言うか完全に忘れてしまった。言葉が出てこない。すると、県民署名運動の実行委員長を務めた大石琢照さんから1枚のメモが手元に届いた。「時間は十分にあります。落ち着いて」 そして、言葉を何とか絞り出した。「若い母親が、『あの店で菓子を買うならお金をあげない』『あの子と遊ぶな』と言う。それが一番悲しい。こんな古和浦では子どもも産めない。知事さん、助けて下さい」 10分もなかった。だが、何十分にも感じた。「ありのままの生活を伝えれば、知事にも届くはず」。開き直って話し始めたが、途中涙をこらえられなかった。 小倉さんの直後に古和浦の反対派住民、磯崎淑美さんが発言した。「賛成の組合員が死ぬと『1票減った』と思ってしまう。子どもまでそう言う」。混乱ぶりを理解してもらうため、人間としての恥ずかしさも包み隠さずに伝えた。 * 南島町での聞き取りを終えた知事は、そのまま紀勢町に移動。同じように町議や住民たちの話に耳を傾けた。錦地区の女性たちでつくる推進団体「進婦会」の代表世話人を務めた谷口都さんは「原発と一緒に生きていくのも一つの方法だ」と訴えた。 丸1日かけて約100人から話を聴いた北川知事。当時の心境はどうだったのか。「原発の是非が生活そのものになっていた。身内同士のけんかに加え、葬式ですら賛成と反対に分かれてする。政治や行政にも責任があると痛切に感じた」 3カ月後に表明されることになる「白紙撤回」の要請。その判断に大きな影響を及ぼした一日だったことは、間違いなかった。(大瀧哲彰) ◇ 2005年に近隣自治体と合併し、南島町は南伊勢町、紀勢町は大紀町になっている。肩書は当時のもの。2020.10.10 10:20
住民が止めた原発:5)反対署名、魂の80万筆署名、やるなら過半数集める 「芦浜を三重県全体の問題にしないとだめだ」。南島町の歯科医師で、中部電力の芦浜原発建設計画の反対派にいた大石琢照さんは考えていた。 1993年、中電による説得や懐柔策で、反対派の牙城だった古和浦漁協の執行部メンバーは、推進派が多数となった。南島町民全体の問題にするべく、この年には反対派が主導し、原発の是非を問う町民投票条例が成立した。それでも、大石さんは「いずれ古和以外も中電にやられる」と危機感を強めていた。 83年に南島町で歯科医院を開業した。当時、「医療関係者は市民活動には関わらない」というのが一般的な考え方だった。当初は芦浜原発の問題にもさほど関心はなかったが、患者の多くは地元の漁師で、住民の一人として見て見ぬふりはできなくなってきた。 治療に訪れる患者は同じ漁師でも、反対派か、推進派かがすぐに分かった。反対派は長靴に作業着姿で、魚の生々しいにおいを漂わせている。推進派の漁師は正装に革靴を履いていた。 ある日、反対派のリーダー格の漁師が「推進派に殴られた」と言って訪れた。歯が折れていた。治療を終えて、警察に被害届を出すよう促したが、「出しても無駄や」とつれない。 「この人たちは、とんでもない相手と戦っているんだ」。その後、大きな覚悟が芽生え、自らも反対運動に加わった。 * 反対派住民は94年12月、海洋調査の受け入れを決める古和浦漁協の臨時総会を実力阻止したが、直前に発足した南島町長をトップとする「芦浜原発阻止闘争本部」の会議では、「もう全県的に反対運動を広げるしか方法はない」という話が出始めていた。大石さんも同じ意見だった。 そこで出た案が「署名集め」だった。本部に実行委員会をつくり、当初、北川正恭知事が95年の知事選で獲得した票数を超える50万人を目標に掲げた。実行委員長になった大石さんは胸の内で、もっと大きいことを考えていた。「やるんだったら、有権者の過半数を集める」 毎週日曜日になると、南島町から200人ほどの住民とともにバスに乗って町外へ出向いた。団地では1軒ずつ歩き回ることもあった。北勢地域では「芦浜ってどこ」「三重県なの」という反応に、温度差を感じざるを得なかった。 * 懸命に集めた署名は、県内の有権者の半数を超える81万筆に達した。96年5月31日、段ボール約100箱分の署名をトラックで県庁へ運び、北川知事にその一部を手渡した。 「重く受け止めさせていただく」。そう述べた知事の顔を、このとき大石さんはまっすぐ見据えた。 97年3月、南島町から出された「冷却期間の設定」と「早期決着」を求めた請願が、県議会で全会一致で採択された。その後、99年末まで2年半に及ぶ「冷却期間」に入った。(大瀧哲彰) ◇ 南島町は2005年に近隣自治体と合併し、南伊勢町になっている。また、肩書は当時のもの。2020.10.09 04:25
住民が止めた原発:4)反対派住民ら、2000人の座り込み体張らねば止められぬ 1994年12月15日、ふだんは静かな漁師町が異様な雰囲気に包まれていた。中部電力が計画した芦浜原発の立地の前提となる海洋調査の受け入れをめぐり、南島町の古和浦漁協でこの日、臨時総会が予定されていた。中電は、すでに海洋調査補償金の前払いとして2億円を漁協側に渡していた。総会に出席する組合員が入れないようにするため、反対派の住民たちが早朝、漁協の建物を取り囲むように座り込んだ。 * 古和浦の反対派住民の小倉紀子さんが前夜に漁協前を通ると、すでに別の地区の住民たちが座っていた。声をかけると、知り合いの一人から、「(近くの)道路は警察の車でいっぱいやで」と言われた。 一人でも多く加わる必要があると思い、軽装のまま冷たいアスファルトに腰を下ろした。 夜が明ける前の午前6時ごろのことだ。「ザクッ、ザクッ、ザクッ」。周りが暗い中で響いたのは警察官らの足音だった。坂の上から列をなし、足並みをそろえて近づいてくる。 漁協を取り囲む住民らは2千人ほどになっていた。前列に女性たち、後列に若者たちが座り込んだ。 「私らが何を悪いことしたんや」「もうだまされへん」「総会が開かれたらおしまいだ」――。住民らは叫んだ。目には涙を浮かべる人もいた。 腕を固く組んだ住民たちが一人また一人と、警察官たちに引き抜かれていく。「とにかく建物の中に入れたら終わりだ」。小倉さんは必死に抵抗した。 母親たちも長い夜を明かした。古和浦の反対派住民の磯崎淑美さんは、近所の住民たちと、徹夜で座り込む住民らのためにおにぎりやおでんの炊き出しをした。「私らは母親として子どものためにやってんだ。負けてられない」 最長18時間の座り込みの末、臨時総会が流会になったことが伝えられると、大きな拍手が起こった。 * 「南島町の反対派による実力阻止は計画が浮上して以来、2度目でした」。伊勢市から座り込みに加わっていた柴原洋一さんは当時を振り返る。 1度目は「長島事件」と呼ばれる出来事だ。66年9月、視察のために訪れた中曽根康弘氏(故人)ら超党派の国会議員団が乗った船を、漁師たちが漁船で取り囲んだ。このとき反対派の漁師30人が逮捕され、25人が起訴された。 柴原さんは「体を張らないと原発は止められない。きちんとした原理や理論を述べても無駄。それが僕が見たこの国の民主主義の現実だった」と憤る。(大瀧哲彰)※南島町は2005年に近隣自治体と合併して南伊勢町になっている。2020.10.07 03:49
住民が止めた原発:3)推進に動いた町「町のための選択だった」推進派「少しでも町を良く」 南島町古和浦から峠を越えると、紀勢町錦の町並みが広がる。芦浜周辺の漁業権を古和浦漁協と分け合う錦漁協は、原発建設計画が浮上した当初から、推進の動きを見せた。 そうした中、紀勢町ではカネをめぐる問題が表面化した。1978年に当時の町長が、中部電力による推進活動のカネにからんで逮捕される原発汚職事件が起き、この町長は辞職した。 * 芦浜原発計画が再燃した直後の86年、町長選では谷口友見さんが初当選した。「(推進と反対で)弾が飛び交っている所に、隊長として突っ込むような感覚だった」。当初、町長としての立場は明らかにしていなかったが、徐々に推進に傾いていった。 錦の出身で、高校卒業と同時に地元を離れた。24歳で妻と戻ってきた。数年後、親戚が反対派の漁師に金づちなどで突然襲われ、顔にけがを負った。この事件に衝撃を受けて、原発計画について自らも考えるようになった。 南島町と同様、紀勢町も漁師町。住民の多くは漁業で生計を立てていた。町長になると、人口減少と少子高齢化社会を見越した準備が必要だと考えた。そのためにも、原発誘致で町にもたらされるお金や雇用に期待を寄せていた。 紀勢町は2005年に、合併して大紀町へ。現在、大紀町長を務める谷口さんは当時を振り返って言う。「苦労するだろうが、少しでも町を良くできるのは、原発であり、お金だった」 * 99年には紀勢町の女性たちが立ち上がり、推進団体「進婦会」を発足させた。谷口都さんが代表世話人を務めた。 難病だった長男は36歳で亡くなった。町内に総合病院はなく、長男は亡くなる前、車で1時間以上かかる松阪市内の病院に通っていた。町内には車を持つ人も限られていて、病気はまさに命に関わる問題だった。 静岡県の中電浜岡原発を視察した際には、地元の総合病院も訪れた。「原発のお金でこんな立派な病院ができるんだ」。期待は膨らむ一方だった。 進婦会のメンバーは、原発やエネルギーの勉強会を開いたり、原発が立地する地域へ視察に出かけたりした。原発の外壁は頑丈に囲われていることを、実際に自分の目で見て確認した。担当者から説明も受けた。 「どこを見ても安全だと思った」。夫とも「これからの時代は原発がなきゃいかんな」と話していた。 当時、原発推進に迷いはなかった。「漁場はいつまで続くか分からないし、若者の働く場所もない。子どもたちのため、町のための選択だった」(大瀧哲彰)2020.10.02 06:16
(交換日記)小説を読めません 102号室の大瀧です。 昔から小説を読むことが苦手です(101の高橋さんすみません笑)。物語の世界観に入り込めない。挑戦はするのですが、いつも3分の1ほど読んだ段階で読むのをやめてしまします。 さくっと読める短編小説は読めるのですが、読み終わった後にこう思ってしまう。「何がおもしろいの?」 小説を読めない人は一生小説を好きになることがないのでしょうか。誰か私に小説を楽しく読める方法を教えてください。もしくは、おすすめの小説を教えてください。2020.09.30 03:46
住民が止めた原発:2)「反対」「推進」南島町の闘争みんなの海、条例で守る 県南部の熊野灘に面する芦浜は、夏になるとウミガメが産卵にやって来る静かな入り江だ。1963年、この地を37年にわたって揺るがすことになる芦浜原子力発電所の建設計画が浮上した。 芦浜周辺に漁業権を持つ南島町古和浦地区の漁師らを中心とする反対運動で、計画は67年にいったん阻止された。だが、84年に当時の田川亮三知事が原発関連予算を県議会に提案。85年に県議会が「芦浜原発立地調査推進決議」を採決し、再び南島町を中心に反対運動が広がった。 93年4月30日、役員選挙が開かれた古和浦漁協に、緊張した空気が張り詰めていた。それまで強硬に反対の立場を貫いてきた古和浦漁協だったが、この選挙で原発推進派が執行部メンバーの多数を占めた。 そして94年2月、30年間堅持した原発反対決議を撤回した。「古和浦の逆転」と呼ばれる出来事だった。 * 小倉紀子さんは、漁協の理事だった夫の正巳さん(故人)とともに、反原発運動に身を置いた。狭い道路に500軒ほどの民家が並び、肩を寄せ合う古和浦を「みんな親戚みたいな場所」と言う。だが、推進派が台頭してくるにつれて、そんな地域はぐちゃぐちゃになった。 「中電や国と闘っているはずなのに。それがいつの間にか、住民同士で憎み合うようになった」 無言電話が夜中まで鳴り続けた。頼んでいない宅配便も届いた。小さい物は痔(じ)の薬から大きい物はダブルベッドまで、毎日のようにだ。差出人の名前が書かれていない手紙には、「殺すぞ」「バラすぞ」といった雑言が並んだ。 漁協の理事選の日が近づくと、推進派の組合員が毎晩自宅に訪れ、正巳さんが立候補しないように頼みに来た。「小倉正巳を説得した組合員に3千万円」。そんな話も広まった。 「小さい漁村だから推進派の住民が死ぬと、それが親戚でも反対派は喜ぶ。逆もそう。人の不幸を喜ぶ場所に中電がしてしまったんだ」。小倉さんはただ悲しむしかなかった。 * 一方、古和浦の逆転を前に、「古和浦だけに決めさせない」と、準備を進めている人たちもいた。 南島町議会で93年2月26日に可決された「町民投票条例」だ。原発立地について全町民の過半数の同意を求める条例で、反対派の町民が主導した。 当時、町議会の議長だった橋本剛匠さんは、運動の中心的存在だった。芦浜原発計画を止めるために、83年の町議選に立候補して初当選。「芦浜はみんなの海。全町民の了解が必要」と、条例制定に尽力した。条例が可決されると、喜びをかみ締めた。(大瀧哲彰)2020.09.30 03:32
住民が止めた原発:1)子を守るため、立ち上がる母親たち 中部電力による芦浜原発建設計画は、公表後から撤回までの37年間、地元に大きな混乱をもたらし、その後も大きな影を落とした。2000年2月22日、計画は当時の北川正恭知事は県議会で白紙撤回を表明。その後、中部電力が断念した。あれから20年。原発計画に翻弄された住民らの声をもとに、9回の連載で当時を振り返る。(諸事情により、各回で画像は付けません)――――子を守れ、立ち上がる母 三重県明和町の民家に2月12日、8人の母親たちが集まった。子育ての傍らで社会問題を学ぶサロン「日常―the back of エブリディ―」。3回目となるこの日のテーマは「あの日、お母ちゃんたちは、立ち上がった」。中部電力の芦浜原発建設計画の反対闘争から、原発とエネルギーの問題を学んだ。 「お母さんたちは推進派の地区に出かけてデモをしていました。子を持つ母親だからできた運動があったんです」。講師役の元高校教諭で、反対運動に深く関わった柴原洋一さんが言うと、テーブルを囲む母親たちは話に聴き入った。 * このサロンは2019年10月から、2カ月に1回開いている。企画したのは2児の母親で、子育てグループ「ハハノワ」のリーダーを務める荒木章代さんだ。 ハハノワは2012年5月、母親たち4人で結成した。その前年に起きた東京電力福島第一原発の事故がきっかけだった。 当時、荒木さんは生後5カ月の長男を抱きながら、事故の様子をテレビのニュースで見ていた。「放射能が降ってくる」。チェルノブイリ原発事故の際、親から雨にぬれないよう注意された記憶がよみがえった。 「食べ物は大丈夫なのだろうか」「マスクはしたほうが良いのか」――。ママ友たちと一緒に不安になった。何より子どものことが心配だった。 しかし、原発に関する知識はゼロに等しかった。漠然とした恐怖や不安を共有し合う母親たちが集まり、放射能や震災がれきについて学ぶため、ハハノワの活動がスタートした。「子どもたちを守れるのは私たちしかいない。母親同士が横に手を取り合ったら、大きい力になると思った」 * 福島であれだけ大きな事故が起きたのにもかかわらず、日本で原発が動いていることが信じられない。その昔、県内に原発建設計画があったと知ったのは、活動を始めて半年たってからだった。自分が知らなかったことがショックだった。同時に、反対運動で闘ってくれた人たちへの感謝の気持ちが湧いた。 その歴史を心に刻むために、毎年2月には芦浜原発計画をめぐる動きを振り返る催しを欠かさずに開いている。ほかにも脱原発をめざす講演会、政治家と政治について語り合う座談会、選挙の啓発運動なども企画してきた。 子どもが大きくなるにつれて、ハハノワの活動は縮小してきたが、別のサロンも開いて活動の幅を広げている。「自分と関係ないことではないということを、みんなで学ぶ場にしたい」(大瀧哲彰)2020.09.28 08:00
原発を止めた町の訴え「安全なら都会へ」 「原発を止めた町」が三重県南部にある。 1963年、南伊勢町古和浦地区(旧南島町)と大紀町錦地区(旧紀勢町)にまたがる入り江「芦浜」に中部電力による原子力発電所の建設計画が持ちがあった。古和浦地区を中心に、地元では反対運動が繰り広げられた。反対と推進で二分され、親戚同士でもいがみ合った。 原発計画の停止が決まったのは今から20年前の2000年2月。当時の北川正恭三重県知事が県議会で「白紙撤回」を中部電力側に求めた。それを受けた中部電力が、その日のうちに原発計画の断念を決めた。 反対を訴えた人たちの理由は単純明快だった。 「先祖からつないできた海を守るため」「将来の子どもを守るため」 そして反対運動を繰り広げた漁師たちは、訴えた。 「原発が安全なら、都会に持って行け」 計画の白紙撤回から20年に合わせ、朝日新聞で9回の連載をしました。連載は随時掲載するとして、下記の記事では、芦浜原発計画の概要をまとめました。――――芦浜原発計画、今も住民に亀裂 中電、断念から20年 賛否をめぐって三重県南部の漁村を二分した中部電力芦浜原発の建設計画が断念されてから22日で20年になる。原発は造られなかったが、住民たちの間に生まれた亀裂は今も残されたままだ。 計画は中部電と三重県が1963年に発表。翌64年に南伊勢町(旧南島町)と大紀町(旧紀勢町)にまたがる「芦浜」が候補地に決まった。 地元は推進派と反対派で二分された。1997~99年に立地活動を休止するといった「冷却期間」を経て、2000年2月22日に当時の北川正恭知事が県議会で、計画の白紙撤回を求める考えを表明。それを受けて中部電が同日に社長会見で計画断念を発表するまで、地元での混乱は続いた。 その余波は20年たっても消えることがない。「今も推進派の人とは話ができない」。旧南島町古和浦地区で、反対を貫いた磯崎淑美さん(64)は言う。 芦浜周辺に漁業権を持つ古和浦漁協では、計画が持ち上がった当初は反対派の勢いが強かった。だが、中部電による説得や懐柔策で、90年代には推進派が台頭。磯崎さんは、推進派からの嫌がらせに頭を悩ませた。自転車で町を走ると、推進派の若者に道をふさがれたことも。それでも当時は反対運動を続けた。「子どものためにやってたんだ。みんなの海だから」 一方、旧紀勢町では、計画が浮上した当初から漁協をはじめ、推進派が多数を占めていた。主婦の谷口都さん(89)は99年に地元の女性たちと推進団体をつくり、代表世話人を務めた。「原発ができればお金が落ちて町も潤うし、働き場もできる。これからの時代は原発だと思っていた」 地元の振興につながると信じていた原発計画はなくなり、町内には若い人の働き口が多くはない。「あのとき原発が来ていたら、町の暮らしも良くなっていたかも」。過疎化が進む町で暮らす今、そんな考えが時折頭をよぎる。 三重県によると、19年10月時点の高齢化率は南伊勢町で53・1%と、県内で最も高い。2位の大紀町も50・0%で、県平均の29・4%を大きく上回る。 南伊勢町で歯科医院を開業する大石琢照(たくてる)さん(63)は町の将来を懸念しながらも、「混乱したころのことは思い出したくもない。もし芦浜に原発があったらなんて考えないようにしている」と話した。「地方分権、時代の転換期だった」 白紙撤回求めた北川元知事インタビュー 20年前に知事として計画の白紙撤回を求めた北川正恭さん(75)に、当時の判断に込めた思いを聞いた。 ◇ 芦浜原発計画は県政上で大きな課題の一つでした。知事就任時、私の時代で何らかの形で決着をつけることは使命だと思いました。 現地を訪れて、100人以上から話を聞きました。原発の問題で身内同士がけんかをしたり、葬式も賛成派と反対派で分かれたりしている。原発の問題が生活そのものになっていて、地域を蹂躙(じゅうりん)していました。こんな状態を見過ごすわけにはいかないと思いました。 エネルギー政策は国策ですから、知事には何の権限もありません。その中でも私が結論を出そうとしたのは、三重県全体を統括する責任者として対応するべきだと考えたからです。 国に仕事を指図される機関委任事務が廃止されて、ちょうど地方分権の時代に入るころで、地方が自分たちの主張をしていいという考えにたどり着きました。「白紙撤回」を宣言できたのは、時代の転換期だったからとも言えます。(大瀧哲彰)2020.09.17 22:43