住民が止めた原発:5)反対署名、魂の80万筆

署名、やるなら過半数集める

 「芦浜を三重県全体の問題にしないとだめだ」。南島町の歯科医師で、中部電力の芦浜原発建設計画の反対派にいた大石琢照さんは考えていた。

 1993年、中電による説得や懐柔策で、反対派の牙城だった古和浦漁協の執行部メンバーは、推進派が多数となった。南島町民全体の問題にするべく、この年には反対派が主導し、原発の是非を問う町民投票条例が成立した。それでも、大石さんは「いずれ古和以外も中電にやられる」と危機感を強めていた。

 83年に南島町で歯科医院を開業した。当時、「医療関係者は市民活動には関わらない」というのが一般的な考え方だった。当初は芦浜原発の問題にもさほど関心はなかったが、患者の多くは地元の漁師で、住民の一人として見て見ぬふりはできなくなってきた。

 治療に訪れる患者は同じ漁師でも、反対派か、推進派かがすぐに分かった。反対派は長靴に作業着姿で、魚の生々しいにおいを漂わせている。推進派の漁師は正装に革靴を履いていた。

 ある日、反対派のリーダー格の漁師が「推進派に殴られた」と言って訪れた。歯が折れていた。治療を終えて、警察に被害届を出すよう促したが、「出しても無駄や」とつれない。

 「この人たちは、とんでもない相手と戦っているんだ」。その後、大きな覚悟が芽生え、自らも反対運動に加わった。

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 反対派住民は94年12月、海洋調査の受け入れを決める古和浦漁協の臨時総会を実力阻止したが、直前に発足した南島町長をトップとする「芦浜原発阻止闘争本部」の会議では、「もう全県的に反対運動を広げるしか方法はない」という話が出始めていた。大石さんも同じ意見だった。

 そこで出た案が「署名集め」だった。本部に実行委員会をつくり、当初、北川正恭知事が95年の知事選で獲得した票数を超える50万人を目標に掲げた。実行委員長になった大石さんは胸の内で、もっと大きいことを考えていた。「やるんだったら、有権者の過半数を集める」

 毎週日曜日になると、南島町から200人ほどの住民とともにバスに乗って町外へ出向いた。団地では1軒ずつ歩き回ることもあった。北勢地域では「芦浜ってどこ」「三重県なの」という反応に、温度差を感じざるを得なかった。

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 懸命に集めた署名は、県内の有権者の半数を超える81万筆に達した。96年5月31日、段ボール約100箱分の署名をトラックで県庁へ運び、北川知事にその一部を手渡した。

 「重く受け止めさせていただく」。そう述べた知事の顔を、このとき大石さんはまっすぐ見据えた。

 97年3月、南島町から出された「冷却期間の設定」と「早期決着」を求めた請願が、県議会で全会一致で採択された。その後、99年末まで2年半に及ぶ「冷却期間」に入った。(大瀧哲彰)

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 南島町は2005年に近隣自治体と合併し、南伊勢町になっている。また、肩書は当時のもの。

Tetsuaki Otaki

95年北海道生まれ、大阪府在住。新聞記者。
執筆した記事、取材で感じたこと、文字にならなかった取材を文章にします。北海道、広島、三重、大阪、朝鮮半島の話題が多いです。

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