住民が止めた原発:1)子を守るため、立ち上がる母親たち

 中部電力による芦浜原発建設計画は、公表後から撤回までの37年間、地元に大きな混乱をもたらし、その後も大きな影を落とした。2000年2月22日、計画は当時の北川正恭知事は県議会で白紙撤回を表明。その後、中部電力が断念した。あれから20年。原発計画に翻弄された住民らの声をもとに、9回の連載で当時を振り返る。(諸事情により、各回で画像は付けません)


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子を守れ、立ち上がる母

 三重県明和町の民家に2月12日、8人の母親たちが集まった。子育ての傍らで社会問題を学ぶサロン「日常―the back of エブリディ―」。3回目となるこの日のテーマは「あの日、お母ちゃんたちは、立ち上がった」。中部電力の芦浜原発建設計画の反対闘争から、原発とエネルギーの問題を学んだ。

 「お母さんたちは推進派の地区に出かけてデモをしていました。子を持つ母親だからできた運動があったんです」。講師役の元高校教諭で、反対運動に深く関わった柴原洋一さんが言うと、テーブルを囲む母親たちは話に聴き入った。

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 このサロンは2019年10月から、2カ月に1回開いている。企画したのは2児の母親で、子育てグループ「ハハノワ」のリーダーを務める荒木章代さんだ。

 ハハノワは2012年5月、母親たち4人で結成した。その前年に起きた東京電力福島第一原発の事故がきっかけだった。

 当時、荒木さんは生後5カ月の長男を抱きながら、事故の様子をテレビのニュースで見ていた。「放射能が降ってくる」。チェルノブイリ原発事故の際、親から雨にぬれないよう注意された記憶がよみがえった。

 「食べ物は大丈夫なのだろうか」「マスクはしたほうが良いのか」――。ママ友たちと一緒に不安になった。何より子どものことが心配だった。

 しかし、原発に関する知識はゼロに等しかった。漠然とした恐怖や不安を共有し合う母親たちが集まり、放射能や震災がれきについて学ぶため、ハハノワの活動がスタートした。「子どもたちを守れるのは私たちしかいない。母親同士が横に手を取り合ったら、大きい力になると思った」

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 福島であれだけ大きな事故が起きたのにもかかわらず、日本で原発が動いていることが信じられない。その昔、県内に原発建設計画があったと知ったのは、活動を始めて半年たってからだった。自分が知らなかったことがショックだった。同時に、反対運動で闘ってくれた人たちへの感謝の気持ちが湧いた。

 その歴史を心に刻むために、毎年2月には芦浜原発計画をめぐる動きを振り返る催しを欠かさずに開いている。ほかにも脱原発をめざす講演会、政治家と政治について語り合う座談会、選挙の啓発運動なども企画してきた。

 子どもが大きくなるにつれて、ハハノワの活動は縮小してきたが、別のサロンも開いて活動の幅を広げている。「自分と関係ないことではないということを、みんなで学ぶ場にしたい」(大瀧哲彰)

Tetsuaki Otaki

95年北海道生まれ、大阪府在住。新聞記者。
執筆した記事、取材で感じたこと、文字にならなかった取材を文章にします。北海道、広島、三重、大阪、朝鮮半島の話題が多いです。

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