Taro Yukino(雪野太朗)

Taro Yukino(雪野太朗)
95年お茶の国生まれ。お茶の国在住。リーマンしてます。
本とパフェとアイスランドが好きです。
エッセイ、紀行文、短編小説がメインのお部屋となります。
サメに噛まれるのが怖くてやれなかったサーフィンを始めた男です。明日天気になあれ。

記事一覧(16)

(交換日記)常に崖っぷち

先日シェアハウスを出て一人暮らしをするために引っ越した。引っ越したその日に自分の隣人が自決してしまった。本当にショックだった。まず最初に思ったのは、生きててくれと思った。顔も見たことのない人だけれど、心底そう思った。背景も何もかも分からないけれど、ただ生きててくれと思った。生きてるだけですごい事だと心の底から思う。周りの人の反応も正直、千差万別だった。そこにも少し悲しい気持ちになった。人の死を直視することはとてもキツい。こんなタイミングでこんなことが起こるなんて本当にびっくりしている。第二次世界大戦のホロコーストを生き延びたヴィクトール・フランクルはいう。「人生に何かを期待するのは間違っている。人生が、あなたに期待しているのだ。」この体験から俺は何を感じ、何を想い、どう生きていくのか。環境や境遇を嘆くのでななく、常に自分がどう在るか。生きてる以上、死は常に身近だ。そして不可避だ。いつか人は死ぬ。みんなそうだ。そこに学歴や夜を共にした女の子の数や年収は関係ない。生きながら、常に死に向かってる。死は常に隣り合わせなのだ。その圧倒的事実が「いま、生きてる!」って実感を生むのかもしれない。その一瞬を逃すな。人生を試すんじゃない。人生から試されてるんだ。はした金を求めるな。自分にとって本当に大事なものを求めよ。周りのおかげ。知的謙遜。くだらないマウントの取り合いなんて、サッカースペイン代表のイニエスタばりのスルーパスだ。雑音に反応するな。常に自分の内側を観よ。判断するな。どーでも良い事だらけなんだから、そんなもん無視しろ。本質を見失うな。本質だけを観よ。雪野太朗。行けるとこまで行くぞ。

6月のある日の夜、僕はフィンランドにいた。

「はええよ。」フィンランドのスーパーは閉店が早い。物価の高いフィンランドではスーパーでお酒を買って酔うのが定石だ。平日は19時には閉まる。土日なんてお休みだ。酔わなくちゃダメだ。ダメに決まってる。一人でフィンランドまで来て夜にお酒にのまれないなんて、フィンランドに来た意味がないじゃないか。これが僕のフィンランドの夜に対する公正で中庸な見方だ。夜にシラフで過ごすフィンランドに価値はなどない。いつからこんな極端なものの見方をするようになっただろう。これだから決まったガールフレンドの一人としてできないのだ。仕方なく僕は、ヘルシンキ中央駅近くのバーに入る。店内は薄暗くカウンターの間は適度に席が離れている。パーソナルバブルを重んじる国民性はこういった細かいところで見受けられる。特に感染症等が流行していた時期ではないのにもかかわらず、席間隔がある程度空いているのだからほぼ間違い無いだろう。これじゃろくに女の子と話せないじゃないか。そんなことを思っていると、老夫婦が僕の隣に仲良く座ってくる。まだまだ現役だと言わんばかりのベタつき具合だ。全く、大した世の中である。グラスビールを飲み干し、とっとと店を出る。僕が求めているのはこんな店じゃない。若者が道の真ん中で溜まっている。ある者は叫び、ある者は踊り、ある者は抱き合っている。まるで今日が人生最後の日であるかのように、自分たちの持つエネルギーを余すところなく放出している。ふと目についたナイトクラブに入る。水曜の夜なのにも関わらず、店内はなかなか賑わっている。カウンターに行き、ビールを頼む。3ユーロを渡し、よく冷えたビールを受け取って店内を巡回する。みんな背が高い。日本では割と高身長な部類に入るはずの僕はあっという間に埋もれてしまう。アジア人である僕は完全にその空間ではマイノリティーだった。胸元のぱっくり開いた真っ赤のドレスを着た女の子が目に飛び込む。速攻で距離を詰める。0秒思考だ。考える前に動く自分がいる。「Hello~Lady!What’s up??」女の子はこちらを見向きもしない。まるで僕の発した言葉が空気を振動させることなく、広大な宇宙に吸い込まれていくようだった。「10回戦って、1勝9敗で良い。」世の優れた経営者でさえもそれぐらいの勝率なんだ。僕なんて足元にも及ばない。ビールを一気に飲み干し、気を取り直して次の戦場へと向かう。「ゲームに参加しないことが1番のリスクだ。」世界一の投資家ウォーレン・パフェットの言葉が僕を励ます。今度はあえて男女二人組を攻める。僕のできる最大限politeな姿勢でアプローチすると、彼らは快く僕を迎えてくれる。”礼儀正しさ”は世界どこでも通用するスキルらしい。話を聴いていくと、彼らはポルトガル人で従兄弟の関係だという。夏のバケーションを使って、フィンランドにいる友人を訪ねにきたそうだ。昼はサウナに入り、夜はナイトクラブに繰り出す生活。彼らがフィンランドに求めていることは至ってシンプルだった。話も弾み、一気に打ち解けると男の子が3人で踊ろうよと言ってきた。北欧で人気のテクノソングに揺られながら、フィンランド語で話すDJの前でフィンランドで出会ったポルトガル人たちと日本人が一緒に踊るというのも中々面白いものだ。いんたーなしょなる。たまに女の子に近づこうとする男を従兄弟の男の子は胸板で威圧する。弱肉強食の世界だ。適応できないものは滅びる。自然選択の原理がここでも働いている。僕はなんとしても生き延びなければならない。しばらく3人で踊っているとこれまた背の高い女の子に話しかけられる。「Where are you from?」日本からだと僕は彼女に告げると、一緒に踊ろうといわれる。これは来た。心の中で思わずガッツポーズをする。しばらくその女の子と一緒に踊る。室内に響き渡るテクノソングと僕らのダンスが重なり合う。ここだ。甲子園を賭けた高校野球大会決勝戦のピッチャーがワインドアップモーションで大きく振りかぶったときに感じる緊張感を携え、彼女の唇を目掛けて顔を近づける。「ピシャン」途端に激しい痛みが僕の頬を走る。「Fuck off dick」一緒に踊っていた女の子が叫ぶ。どうやら僕が彼女に近づけるなんてとんだお門違いだったようだ。「トライした者しか失敗できない。」僕がここで言いたいことはこの一言に尽きる。女の子に頬を叩かれるなんてただ漫然と呼吸していたら得難い経験じゃないか。これは解釈の問題だ。少なくとも僕は挑んだ。勇敢に立ち向かった。それ以上の何があるっていうんだ。痛みさえも携えながら、目の前を生きていく。ヒリヒリと痛む左頬を抑えながら、澄み渡る朝焼けに向かってすでに僕は一歩踏み出していた。

「親知らずを抜くときの僕が考える看護師とのコミュニケーション」

現場の逼迫。夜勤。高齢者への対応。コロナ感染者への配慮。無機質な病室。いびき。取るに足らないのではと思わず声を漏らしたくなるような不平不満の嵐。そんな殺伐とした中でも、日々生きなければならない。どんな毎日もみんな生きてるなあって感じた。そこにはそれぞれの抱えてる葛藤があり、将来設計があり、人とつながっていたいという貢献欲がある。明日も恐らく日は昇るし、朝ごはんにいちごジャムのトーストを食べる人もいるだろう。科学技術の進歩や人口減少、高齢化、気候変動。山積する問題があっても、今生きるほかないみたいだ。時は無常にも流れてしまう。もう高校生には戻れない。艶々の肌で行き場のない悶々としたエネルギーを携えた青春時代はニ度と戻ってこないのだ。中学三年生のときのクラスメイトの言葉が蘇る。「15歳は今しかない。今この瞬間が人生で最も若いんだ。」気持ち次第で若々しさは保てるさ。運動習慣、食生活、飽くなき挑戦欲。良好な人間関係。でもそこには過ごした年月という物理的に超えられない圧倒的な"時間の重み"がある。歳を重ねるごとにできることは増えていくかもしれない。色んなことに良くも悪くも折り合いをつけられるという技能も学んでいく。自分を少しばかりコントロールできるようになるのかもれない。でもその年齢でしか楽しめない"感情"があると僕は思う。その時だからこそ味わえる"感情"があると思う。26歳の僕は、どのようにしてこの短い函館の夏を噛み締めたいのか。大森浜で鈴木真海子のラップを聴きながら、瓶ビール片手になれない手つきでタバコをふかしてるのか。何時間も飽きることなく夜の波音を聴き入っているのか。いずれにしてもこの夏は自分にとって大きな意味を持つものになるであろう。ラストモラトリアムサマー。かな。Vibes up.

じぶんごと

大学卒業から4年経ちました。時の流れは止められない。もはやそれについては諦め始めました。どんなに時を止めようと、0.5倍速にしようと無理でしたねそれは。抗えないものでした。堰き止めようと足掻いても無情なまでにこぼれ落ちていく。だったらいっそ受け止めよう。そう思えているような気がする、2021年5月1日。何者かにならないといけない。そんな焦りを胸のどこかに微かに抱えているのか。いつだって自分以外の人間に期待しちゃう。杓子定規に物事を当てはめて、枠から出ているものを必死に入れ込もうとする。それで苦しむのは自分だというのに。多様性の損失行為だ。なんて矛盾だ。違うことが前提だと頭では分かっているつもりでも、どうしても足を引っ張られてしまうと感じてしまう。自分ひとりならどんなに速くいけるんだろうと想像するけど、結局どこにもいけないことも経験から分かってるつもりだ。そんな虚しいゲームなんてない。トラブルがあるから楽しいし、トラブルは立派なイベントだ。遠回りこそが1番の近道なんて元プロ野球選手のイチローさんはいう。機能的に合理的にすすもうとしても結局は人生の不確実性という自然界の摂理に翻弄されるのがオチだ。無駄に見えるもの、必要条件でないものを楽しむ余白こそが醍醐味なのかもしれない。serendipity日本語に訳すと「偶発力」自分の身に降りかかるどんな物事も楽しむ。

着いた。浜松を出てから4日目の昼過ぎ。僕は函館にいた。1週間前に会社を辞め、青春18切符を使った鈍行旅。大きめのバックパックを背負った自分をトイレの鏡で見る。やっぱ自分はこうでなくちゃと思う。仙台、盛岡、青森と過ごし、津軽海峡を渡る。青函フェリーのデッキチェアに座る。夏の終わり、海風を感じながら自分という存在について思いを巡らす。感覚だけで生きてきた。思えば、25年間ずっとそうだった。なんかこっちの方が面白そう、ワクワクする。自分だけにしか分からない感触を頼りに、この生きづらい世の中をそれなりに渡り歩いてきたじゃないか。決して誇れるようなことばかりしてきたわけではない。これからもそういった過ちを幾度となく繰り返していくのだと思う。それでもたしかにいま僕はここにいる。その事実がじんわりと僕の心を温めてくれる。船内でドイツ人の青年と出会う。東京大学の交換留学生として機械工学を学んでいると自己紹介をしてくれた。僕は機械工学についての知識をあいにく持ち合わせていないので、ただ「ヘぇ」と感心する。彼と安倍前内閣総理大臣のリーダーシップについて議論を交わしながら、4時間に及ぶ船旅を楽しむ。人との出会いは旅の醍醐味だ。函館港に着き、青年に別れを告げる。限られた人生という時間軸の中でほんの束の間でもお互いの時間が交差することに僕は感動する。その先二度と交わることがない線だとしても、交わったという記憶は僕の心に残るのだ。函館バスで函館駅まで行き、市電に乗り換える。整理券を取り、目についた座席に座る。ノースフェイスのリュックサックからワイヤレスイヤホンを取り出し、The 1975のsomebody elseを聴く。しばらく車窓にうつる景色をあてもなく眺める。いま僕は函館にいるんだと思う。大学時代4年間を過ごした街。僕にとって大っ嫌いで大好きな街。僕にとって特別な街。ふと、向かいに座っている女性と目が合う。身長は160cm後半ぐらいだろうか。淡いワンピースに毛先を茶色に染めたパーマヘア、薄く塗られた化粧。ナチュラルで飾り気のない等身大の彼女に僕は心を奪われた。何秒ぐらいたったのだろうか。僕は目をそらすことができないでいた。真っ直ぐで濁りのない澄んだ瞳。ああ、俺はこの人と結婚するかもしれないな。自然とそう考えている自分がいた。恋はいつだって唐突だ。予告もなければ前触れもない。準備もなければ用意もない。人生という短い時間軸の中で僕たちは、何を求め、何を手に入れ、何を失い、何を感じるのだろう。理解できない自分以外の人間について想いを寄せようと努めるとき、相手の傷すらもまるごとそっくり自分事として受け入れようと覚悟するとき。その刹那に、生きている意味を感じられるような気がするのは僕だけなのだろうか。

(交換日記)ベトナムいきてぇ

あらあら。私事ですが105号室ユキノ今週末でとうとう会社を辞めることになったんです。あらあら。2ヶ月ほど前から退職を決意し、お盆休みまでと決めていた。その間転職活動をしたもののうまくいかず、次の進路が明確でないままとりあえず今の手札を捨てることにした。あらあら。もちろん不安ですよそりゃ。この交換日記を書いてる今も不安を感じていますし、まだ親に切り出せてない現実に辟易しています。まあでもしょうがないんです。自分にとってこれがベストとはいえなくともベターな選択だったんです。人は常に意思決定を人生という大きな容れ物から要求されている。なにを詰めようか、どのように詰めようか、後どれぐらい詰められるだろうか、逆に詰めすぎてるものはないだろうか?選択の連続ってやつだ。選択をする際にお金、時間、感情、人間関係、環境、さまざまな因子を引き合いに出して一生懸命選びとる。総合的にみて1番自分がその時に納得できる方向を選ぶ。まあほんとよくこんなクソめんどくさいことやってくよなぁなんて思う。そんなこと考えてる内に2020年が残り3分の1程度になっているという驚愕の事実にぶち当たる。そしていよいよぼくちんも26歳になってくる。5次元の世界においては時間という要素は物理的な存在であるらしい。手にとって動かせて、伸びたら縮んだりするらしい。3次元の世界に生きる自分にとって時間とはどのような意味を持つのだろうか。終着駅はじわりじわりと近づいてきている。死ぬまでのカウントダウンの中に常に生きている。普段あまり考えもしないその圧倒的な事実を前にすると、自分なんとかなるんやんなんて思えたりもする。みんな精一杯生き抜こうぜ。大人になっても子どもみたいに遊びまくろうぜ。この世界は遊び場だ。フォーーーーー。ベトナム行きたいっすね。

feel the nature

嗚呼。誰もが皆、生きながら同時に病んでいる。それぞれの傷を抱えながら懸命に今を過ごしている。見つめている。自分の傷をないものとして気づかないうちに蓋をしている。本当に分からないもんなんだ。感情に蓋なんてしてるわけがない。自分は比較的、開放している人間だと思っていたし、その都度感情と向き合ってきたつもりだった。ある意味そこには絶対的に近い自信があった。そこを突かれる日が来るなんて想像もしてなかった。「もっと本気で、生きることについて考えられるんじゃないですか?」拍子抜けした。ぐうの音も出なかった。いくら頭をこねくり回してもしても答えは出なかった。でも今日、予定をパンパンに埋め、空白を無かったことにする自分がいることに気がついた。何かに没頭しようとすることで、生きる意味に正面から向き合うことを無意識に避けていたのかもしれない。本を読み、ネットフリックスを観て、サーフィンをやる。言い換えると、知識やストーリーを頭に入れ、自然と共に身体を動かす。こういった行動は見方によれば、無条件に過ぎ去る時間を習慣によって、惰性で過ごしているともとれる気がする。結局人生なんてものは壮大な暇つぶしにすぎないんだと感じる自分もいる。与えられた時間をただよくわからないまま消費していくだけの空虚なゲームなんじゃないかなんて思ってみたりもする。自分の存在について想いを巡らせば巡らせるほどよく分からなくなって、頭がパンクしそうになる。簡単に表現させていただくと、「まじで、意味わかんねーよばーーーーーーーーーーーーか」みたいな感じになったりもする。「幸せとは常に相対的なものでしょ?ねっ?」人を想い、関心を寄せる。理解できなくても理解しようと努める。その人のストーリーを聴く、考える、入り込もうとする。干渉ではなく、寄り添う。ジャッジではなく、アクセプト。共感しようとする力・意思。追体験する。自分自身に対しても同じこと。自分自身に関心を寄せてあげる。どんなに小さな声も逃さない。無かったことにしない。無視しない。大切に扱ってあげる。女性の肌を優しく撫でる時のように自分の感情にも優しく寄り添ってあげる。感情はMessageだ。自分だけの羅針盤だ。そこにしか答えはない。絶対解はない納得解しかないんだ。そこが全てだ。そこに集約されている。無理に合理化しない。社会に適応させようと意思に反して勝手にカスタマイズしない。生まれたまんまそのまんまで育てていく。赤ちゃんだってそうだよな。お母さんのお腹の中から出てきて、いきなり最新のテック技術を用いてあれこれ身体をいじられたらたまったもんじゃない。どこまでいっても自然界、在るがままの存在には敵わない。自然を見縊るな。自然から生まれた生命を、人を、自分を舐めるな。目に見えない波長を感じろ。頭で考えるな。心に聴きなさい。常に新鮮なワクワクを取れ。フレッシュでいろ。子供みたいに自然と一体化しよう。そこに自分の答えがある。つながりたいんだ。自然と人と自分と。求めているのは一体感、連帯感なんだ。real connection.信頼・安心。最後は常に決まっている。自然に還るだけだ。いやもはや自分たちが自然の一部だから何も変わらないのかもしれない。feel the nature

(交換日記)今日付けで退社させていただきます。

105号ゆきの「今日付けで退社させていただきます。」こんなことを言おうものなら、君には責任という言葉が理解できないのか?自分勝手で周りに迷惑かけやがって!たった1年で辞めるなんて根性がない。等といった言葉が聞こえてきそうです。そういった方々の声はよく理解できます。一見筋が通っているように聞こえます。日本の大半の方々はおそらく、そういったご意見をお持ちになっていると思います。(もちろん年代にもよりますが、ここでは便宜的に一つの一般論として)でも、俺はそうは思わない。というか、思いたくない。というか俺の真理ではない。と思う。なぜならば、自分がいまこの世界に存在しているからだ。ん?いやいや理由になってないっすよ。意味わかんないです。まじで一回死んでください。たしかにそうかもしれない。でも考えてみると本当に不思議な事なんだよな。生命活動を維持しているのって。宇宙ができて、地球ができて、生命が生まれて、人間が生まれて、俺が生まれて、俺が生きてる。なんやねんこれ?理屈で説明できないやん。福山雅治くんから言わせると、全く非論理的だ。自分の生について思考を巡らせると論理の破綻がどこかで起こる。人間の脳は宇宙の構造にめちゃくちゃ似ているらしい。たった15センチの物体が宇宙と相関している。つながっている。自分にできることはただ一つ。周りの雑音や自分のバイアス、マインドブロックを排除して、自然に溶け合い、自分の囁きに耳を傾け、実際にアクションし続けること。なんでかわからないけど自分にしかわからない。そんな自分だけの真理を皆、内包してる。そこにもうすでにある。You already have everything you needもうあるんだ。そこにあるんだ。ここにあるんだ。自分の脳みそちゃんはもうすでにそのことを知っているんだ。伝えてくれているんだ。メッセージなんだ。それを無視して誰が幸せになるんだ?誰のためになるんだ。ここで言う話は本質的に!だぞ。本質だ。金か?女か?地位か?名誉か?プライドか?人工的なシステムは所詮、人工的なものだ。多くの人がその時点で価値を感じているから、その時点で多くの人にとっての価値になってるだけだ。ヒトという一つの種族にとっての虚構、ストーリーにすぎない。メンタリストDaigoが現時点の科学で最も後悔の少ない意思決定の思考法は合理思考だといっていた。世の中のシステム、仕組み、人間の心を背景に考えた上で、最も理にかなった行動がよいと。俺もそう思っていた。ある意味では正しいのかもしれない。だが、時として直感が合理を上回る場合があると今俺は感じている。自分がこうありたい、こうしたいと強く願う。もうすでにかなっている、完了系で思考してみる。感謝powerだ。ありがとう。…馬鹿みたいじゃん。スピリチュアルわろたww きもすぎる。現実見ろてまじで。俺もそう思っていた。でもなぜか今本当に願えば叶っちゃうのかもしれないなと思ってる。なんでなんだろな。不思議でしょうがない。科学的見地からすると、実証されてないことを信じることはあほちんなんだけど。根拠がなくても、言語化できなくても、そこにあるんだ。でももしかしたら、ないかもしれない。全てまやかしで明日から俺は事故で片足を失い、急に肉アレルギーになって2度とステーキを食べることができなるのかもしれない。でも俺は今日からそこにあると信じることに決めた。もう決めちゃった!時として直感は合理を上回る場合がある。そして「思考は現実化する」サッカーの本田圭佑選手も頭の中で「俺はできる」と呪文のように唱えていたらしい。俺にも唱えることぐらいできる。物理的な自由は奪えても、頭の中空想の自由は誰にも誰からも奪うことはできない。まずは自分がこうありたい、こうしたいというイメージを常に頭に拵えてそれが叶うことを本気で想い続ける。すると想う前にもう行動してる。大丈夫だ。Life is magicだって、皆が宇宙というアタマを抱えたまま生きてるんだから。宇宙の自然法則に逆らわずに、身を任せればいい。全ての瞬間が決定的なんだ。ここにしかないし、ここにあるんだ。I am happy気分がよくて何が悪い。

りとあにあのばす

僕はリトアニアにいる。リトアニア。リトアニア?りとあにあ??リトアニアと聞いてパッと地理が頭に浮かぶ人は多くはないのではないか?バルト三国の一国であるリトアニアは、ロシアの西、ポーランドの北に位置する。日本人では命のヴィザを発行した杉原千畝が有名だ。通貨はユーロ。日本より少し物価が安く、東南アジアよりも少し物価が高いイメージ。バックパッカーである僕は少しでも費用を抑えるために移動はバスを活用する。お金はないが時間はたんまりとある。バックパッカーの特性の一つだ。民泊アプリAirbnbで予約した宿へ向かうべく市バスを乗り継ぐ。大きな荷物を背負っているので絶対に席に座りたい。強気で乗り込み、勝利を勝ち取る。心の中で思わずガッツポーズをする。次の停留所でお婆ちゃんがバスに乗る。即座に笑顔を作り、席を譲る。人生なんてそんなもんだ。しばらく窓を覗き込み、見知らぬ風景をボーッと眺める。6月のリトアニアは蚊が多い。緑も多いが蚊も多い。いきなり隣の金髪眼鏡女子に話しかけられる。「Where are you from?」21歳の大学生ぐらいだろうか。僕と話しながら、ときおり自分の手に留まっているてんとう虫を優しく撫でる。iPhone6で写真を撮り始める。おすすめの観光地を聞く。「Old town is definitely worth it.」definitelyの発音が好きだ。強調したいという明確な意志が伝わってくる。今夜もし空いてたら、食事でも行こうと言いかけて自分の降車するべき停留所に着いてしまう。タイミングなのか、自分の勇気が足りなかったのか。大人しく民宿に行き、27歳のホストとアイスクリームを食べながらワールドカップのクロアチア対ナイジェリア戦を観る。決して悪い人生じゃない。夜ご飯を食べるべく、またしても市バスに乗り込む。街の中心部に向かう。ピンク色のスープを食べる。リトアニアの郷土料理でrootbeatを使用しているらしい。中々いける。なんでもチャレンジだ。お金もそんなにないので、早々に引き上げようとバス停に向かうが、帰りのバスが中々こない。30分ほど待ってみる。来ない。。あれま。近くの人に聞いてみるがまともに取り合ってくれない。困ったなぁ。途方に暮れていると、「Are you ok?」と声をかけられる。振り返ると、行きのバスで話した金髪眼鏡女子が目の前に立っている。まじすか、神様?事情を伝えると民宿まで送ってくれると言う。まじすか女神様?俺は世界で一番ラッキーな男なんじゃないかと思う。その子はアルバニア出身の21歳。大学では国際政治学を専攻している。アルバニア料理店で週6でアルバイトをしている。彼氏はいないが、複雑な関係の男の子は三人ぐらいいるらしい。ほうほうと聴き上手な僕は適切なタイミングで相槌を打ち、相手が心地よく話がしやすい環境を整える。聴く力が全てだ。論理的なアドバイスや自分の功績をアピールするような自慢話なんて必要ない。いかに相手に安心感を与えるかで決まると思っている僕は、自分のできることに集中する。だが、無情にも自分の帰るべき場所に辿り着いてしまう。Facebookを交換し、お別れのハグをして、頬にキスされる。日本に生きてたら、まずこんなことはないと強く思い、この思い出を死ぬまで忘れないぞとシャワーも浴びずに寝床に着く。その日は夢も見ることなく、秒速で眠りについた。ありがとう、リトアニア。りとあにあ。

Surf

目をとじる。潮風を全身に感じる。不規則な波の音、鳥の鳴き声。「あー。生きてるわ俺。」サーフィンをやる前に感じることだ。1ヶ月前にやり始めたド初心者だが毎度感じる。たしかにそこで感じる。自分も自然の一部なんだと。日常の喧騒を忘れ、大自然と溶け合う。思いっきり身を委ねる。飛び込む。混じり合う。波というものは想像以上に力強い。人間なんて簡単に跳ね返す。そこには有無を言わせない強さがある、恐怖がある。その強さと対峙しているとき、言葉では言い表せられないような畏敬の念を感じる。尊厳。と同時に圧倒的な死をも感じる。このまま自分という存在が、そっくりそのまま飲み込まれてしまうんじゃないかと思う。この世界から消えてなくなってしまうんじゃないかと思う。でもそれでもいいや、とも半分本気半分冗談で思う。波に飲まれ、波と同化し、そこに還って行く自分。案外悪くないじゃん。生と死。そこに明確なボーダーはあるのか。僕らは常に生きながら死に向かっているし、死にながら生を渇望している。可逆的であり、等価な事象。生きることと死ぬことは見方によっては、同質だ。Let it be.そのまんまにしておけ。放っておけ。あがくな無理すんな。それが真理だ。そこが真理だ。Today is good for die.波に乗る前にいつもそう感じる僕は、サーフィンにハマっています。

(交換日記) なにやってんだ、このタコ。

Room 105 Yukino「なにやってんだ、このタコ。」今日職場の部長に言われた一言だ。正直、傷つかなかったといえば嘘になるし、ムカつかなかったといえば大嘘になる。部下のミスに対してのフィードバックとしては適さない言い方であることは間違いないだろうし、ミスの内容を鑑みると公平さを欠いた物言いであることも間違いない。でもなんだ、この感情は。不思議と許せちゃうような気がしないでもない。それは、その人が時折示す、人間的な温かさを感じるからなのかもしれない。汝の隣人を愛せよとイエスさんは仰るが、割とその程度の出来事なら愛せるような気がする。満員の牛丼チェーン松屋で異国のアルバイト店員さんが牛丼をお客さんのもとに届ける際、指が丼の中に入っちゃってたとして、その人を気が狂ったかのように怒鳴り散らすだろうか。僕は充分に愛せちゃうような気がする。大抵のことは愛せるよな。同時に大抵のことは愛せないよな。むかつくしうざいし胸糞悪いし不快だよな。それすらも愛せよ。ブラック企業、年金問題、GDPの低下、出生率の低下、ジェンダーギャップ、問題なんてクソみたいにある。クソクソのクソだ。でも、そこに向き合う姿勢が全てなんじゃないか。そこから何を自分が学んで、自分の血肉として、成長していけるかが全てなんじゃないか。「なにやってんだ、このタコ。」どんな些細な事象からでも必ず何かを学ぶことができる。俺は何を学びとるんだろうか。