(交換日記)自分が自分で居られる場所
それは部屋のソファーだろうか。
柱時計の音の響くカフェの席だろうか。
教壇の上だろうか。
凪を眺める防波堤の上だろうか。
焚き火を眺める庭だろうか。
実家の食卓だろうか。
SNSの中だろうか。
それとも自分自身の思考の中だろうか。
僕は人間関係を続ける事が苦手だ。
よって自分と向き合う事も苦手だ。
相手に対して抱く自分の先入観と、早とちりと被害妄想が重なって、鏡に反射した自分を他人の目線で見てしまう。そしてついに、相手を誤解して、カテゴリーに分けて、その枠からはみ出さない話題を選んで会話をする。
君にはこんな事言っても共感してもらえないだろうなぁ。と心の中で呟いて、気まずい沈黙が流れるのだ。本当に欲しいのは共感ではなく、「あなた何様なの?」という叱責なのに。その発言を得るための行動を自分から起こす勇気は僕にはまだない。
いつだって隣の芝は青い。
あおいというのは僕の初恋の人の名前だ。元気にしているだろうか。
記憶というのは時間と共に美化されていく。それは取り壊される前の建物のような、忘れられていく儚さを孕んだ美しさではなく、プラスチックサージェリーを受けた肌艶と不自然な形の乳房のように洗練された紛い物なのだ。後悔を忘れて生きていけるほど、僕たちは強い個として進化したのではなく、後悔から学んで生きていくための生存本能に、まだ感情が追いついていない。
例えば、僕は女性と2人でカフェに行き、いつもより高いランチを食べながら2人で会話をしている時に、ミラー効果を狙い相手と同じ姿勢を取り、相手の話には深く共感し、「わかる。」と大袈裟に頷き、質問を繰り返して、自己開示を狙い、さらには吊り橋効果を狙ってあえて絶景を観に行ったりもする。しかし帰宅と同時に得られるのは、大きな疲労感と、「今日は楽しかったです。ありがとう。あのお話面白かったです。次は...」と、その後もいくつか続くであろうLINEのメッセージに嫌気がさしてくるのだ。
結論、自分が自分で居られる場所は他人との関係性の中には作れないという事だ。
しかしながら今日も生存本能と子孫繁栄の遺伝子の力には耐えられずに、女性の身体をガン見して、横に並ぶ男と自分を比較する。自分の哲学など微塵も感じないその歩き方に、背後から近づいてmother fuckerと吐き捨てて追い越す。歩くスピードが遅いんだよ、と中指を立てる。弱い犬ほどよく吠えるとはこの事か。
いずれにせよ、とにかく打席に立つという事が大切だと友人に言われたので、よく行くカフェの店員さんに(『君が珈琲を淹れる姿をみて』を参照してください。)、電話番号を書いた紙を渡して、「とても魅力的だと思っていました。」と伝えると、結婚しているんですと伏目がちに言われたので、僕はあと1万光年くらいは自分磨きをしながら、過ごそうと思います。
誰になんと言われようと、自分の哲学を鍛える強さを持っていたい。そしてそのためには、他人の感情を許容する優しさと謙虚さが必要になる。それを会得していく年齢に近づいて来たと思う。そこに気づいた時点で、モテる30代確定しました。
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