「死にたい」と叫んだ被爆者の祖母

 あの敗戦から75年。日本が真珠湾を攻撃して、朝鮮半島を含むアジア諸国を攻めた。アメリカが広島と長崎に原爆を落とした。何人の命が奪われたのか。

 戦争体験の継承……。メディアやSNSで、そんな言葉が、この敗戦から75年の節目の年に飛び交った。

 継承なんてできるのか。当事者がいなくなった世界はどうなってしまうのか。自分に何ができるのか。

 そう自問しながら取材して書いた記事です。


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戦時下を生き抜いた「ママ」は、死にたいと叫んだ 孫に語った「原爆の話」


 幼いころ、祖母に聞かされた悲惨な「原爆の話」。被爆3世の女性が、その話の意味を深く考え始めたのは、つい最近のことだ。

 三重県いなべ市の野々亜希子さん(42)は、2年前に亡くなった祖母の一瀬恵美子さんを、いまも「ママ」と呼ぶ。小学生のときに両親が離婚。母と祖母と暮らした。母は家にいないことが多く、3歳上の姉とともに祖母に育てられてきた。

 31歳のとき、新婚旅行で長崎を訪れた。原爆資料館や平和公園、爆心地に近く児童約1400人が亡くなった長崎市立城山小学校(旧・城山国民学校)……。原爆にまつわる場所を巡ると、涙が流れた。「ママもこの辺、歩いていたのかな」。祖母の言葉の数々を思い出した。

     *

 小学生だった亜希子さんは、姉と祖母と3人で川の字になって眠った。「あっこ」。そう呼びかけ、祖母が語り始める。わずかな長崎なまり。いつも同じような物語だった。

 《爆心地から約3キロの自宅で昼食の準備をしていた。すると、突然「ドカーン」という音が響いた。「自宅の庭に爆弾が落ちた」と思った。山の陰にいたおかげで、熱線は浴びずに済んだ。あわてて逃げた山の頂上から見た長崎は火の海だった。電線が垂れて、火花が散ってそこからまた火の手が広がる。「もう長崎は終わった」と思った。

 翌日、父と2人で、造船所で働いていたおじを捜しに爆心地周辺まで行った。そこらじゅうに転がる丸焦げの死体の中に、おじのベルトのバックルを見つけた。おじの遺体だった。

 水を欲しがる人に、水をあげられなかった。どうせ死ぬなら水をあげればよかった。》

 姉は怖がって寝付けないようだった。話し上手な祖母が、なぜこの話ばかり繰り返すのか。あまり考えたことはなかった。

 ただ、いつも穏やかな祖母がこう語るとき、少し険しい表情に見えた。「戦争はするもんじゃない」

     *

 晩年の祖母を、亜希子さんは1人で介護した。転倒事故で失明し、認知症もあった。目が見えなくなった事情を教えても、10分後には忘れてしまう。毎日のように「死にたい」と泣き叫んでいた祖母。悲惨な戦時下を生き延びたにもかかわらず、死を望む祖母に衝撃を受けた。「つらかったんだと思います」

 2018年7月、祖母は亡くなった。95歳だった。喪主として見送った。「ありがとう、お疲れ様。さいごまで一緒にいるからね」。心の中でそう伝えた。

 今年の7月、亜希子さんが幼いころから感じてきた全身の痛みが、線維筋痛症と診断された。いつまで体の自由が利くかわからないと思った。「ママとの人生の記録を残さないと」。使命感から、ブログを書き始めた。

 祖母の戦争体験を語り継ごうなんて、大それたことは考えていない。でも、振り返れば、祖母は「何かを私たちに伝えたかったんだ」という気もする。だからこそ始めたブログ。「ママが生きた証しとして、こんな人が生きていたんだってことを誰かに知ってほしい。それだけです」(大滝哲彰)

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 答えはない。

 ただ、10年後の世界では、「再び戦争を繰り返してはいけない」という戦争体験者の声が、さらに重みを増して私たちにのしかかるんだと思う。


大瀧哲彰

【写真】祖母の墓参りをする野々亜希子さん

Tetsuaki Otaki

95年北海道生まれ、大阪府在住。新聞記者。
執筆した記事、取材で感じたこと、文字にならなかった取材を文章にします。北海道、広島、三重、大阪、朝鮮半島の話題が多いです。

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