Weekend citron

Room 201 Ayaka Hanamoto とのコラボ作品です。

読み終えた後に、彼女の部屋も見ていってください。


 北海道には梅雨がない。 


5月病が過ぎて、徐々に湿気がまとわりつくようになった頃、週末爽やかな風が吹いて初夏を感じた。この季節になると思い出す人がいる。 


 その日僕は午後から有給を取って海岸線を車を走らせていた。

 よく晴れていて、仕事という日常から逃避した僕の罪悪感をさらに掻き立てるように潮風が心地よかった。爽快な罪悪感。街を二つ越えて南端の灯台を過ぎると、道路は一車線になり対向車がくるとおそらくかわせないほどの細い道に出る。その先の舗装されいない道路を500メートルほど進むと、海岸線沿いに小さな集落が現れる。船見町。その集落の一番端にそのお店はある。”ペンギンズバレー” 


白いドアを開けると、心地よい潮風が背中を通り抜ける。
 

カウンターの席にはおばあさんが1人メガネをかけて雑誌を読んでいる。奥からマスターの奥さんが出てきて窓側の席に案内される。運ばれてきた水を一口飲んで、ハーブティーとウィークエンドシトロンを注文する。 


今日の海にはコンテナ船が2、3隻、漁師の小さな船が5隻、この街と対岸の街を結ぶ観光連絡船が1隻ゆっくりと目の前を流れていく。夏至を迎える前の今の時期は日がとても長くなった。まだあと数時間は日が沈まない。今日は夕焼けを見るまで帰らないと小さな誓いを立てて、薄い文庫本を開く。 


 「こんな話がありますよ。」  


2つ隣の席に座っていた若いカップルにマスターが近づいて話しかける。
おそらく観光客なのだろう。このお店のマスターは話好きだ。そしてその優しい口調で続ける。 


「この小さな集落、船見町というんですがね、そこに住むおじいさんから聞いた話なんですけどね。
夏から秋にかけて、この目の前の海が全部夕日で真っ赤に染まる日があるんだそうです。」


  海を眩しそうに見つめながらマスターは続ける。 


「僕も一度だけ見たことがありますよ。
夕焼けの時間に、太陽がちょうどこのお店の前に沈むんです。
そうすると、本当に海全体が真っ赤に染まるんですね。びっくりしましたよ。オレンジ色に黒を1、2滴垂らしたような深いオレンジ色なんです。感動しましたよ。ただね、そんな綺麗な時間は10分ともたないんですね。すぐに暗くなってしまうんです。 」


若いカップルは旅先で聞く地元の話に興味津々に大げさにうなづきながら聞いている。そして海を眺めながら、きれいだね。見てみたいね。とありきたりな感想を述べ合う。今日はありがとうございます。どうぞゆっくりされていってください。コーヒーのミルクと砂糖をテーブルに置いて、マスターはカウンターに戻っていく。 


「 檸檬って、どこで一番生産されているか知っていますか? 」


ふとあの日の彼女の言葉を思い出す。フォークできれいにケーキを切り崩しながら彼女は顎で切り揃えられた短い髪を揺らしながら僕に話しかける。 


「 さぁ、イタリアですかね。」


「  インドなんですよ。
地中海性気候で育つので、輸入品はイタリアとかアメリカが多いんですけどね。 」


「そういえば、梶井基次郎の檸檬はカリフォルニア産でしたっけ?国語の教科書で読んだのを覚えています。」


「  あぁ、本の上に檸檬を置いて帰る話ですよね。よく覚えていますね。」



  彼女は意味も脈絡もない話をする。そして僕もそれに合わせるが、彼女の唐突さが僕の印象に深く残るのと対照的に、彼女は僕の話なんてよく聞いていない、気がする。
 


「インドではね、市場で売っている檸檬は緑色なんですよ。檸檬は熟す前に買うんです。日本では緑の檸檬って見かけないですよね。 」


彼女はフォークを口に運ぶ。緑色のピスタチオと金箔が白い皿に落ちる。微かな檸檬の香りがする。


 文庫本を閉じて半年前の出来事を思い出していると、マスターの奥さんがウィークエンドシトロンを運んできた。檸檬を型取った生地に白いアイシングがかかっている。緑色の刻んだピスタチオと金箔をまぶした小さなお菓子だ。”週末の檸檬” 安易な直訳に少し頬を緩ませると、マスターの奥さんも優しく微笑んで水を注ぎ足してくれる。 


人はいつから、好きだという思いを簡単に伝えられなくなったのだろう。
人は変わるものだ。人間関係や相手への感情は環境によって大きく変えられてしまうと本で読んだことがある。好き同士で始まった恋愛は、相手を好きでい続けなければならない関係ではうまく行かない。人の心は移ろい、変化するものなのだ。だから、僕たちは大人になるにつれて、好きだという思いが変化することを恐れて、相手に伝えることを躊躇してしまう。それが成長なのだろうか。夏目漱石のいう、精神的な向上心とは、感情の変化に流されない強い心を持つことであって、それは自分の思いに正直に生きることと矛盾してしまうことなのだろうか。僕は、彼女のことが好きだった。たまらなく好きだった。右手の薬指と、左手の小指の指輪が似合う細い綺麗な指が好きだった。顎で切り揃えたいかにも気の強そうな栗色の髪が好きだった。気が強そうな小さな胸が好きだった。夏を先取りしてしまった青と白のボーダーのシャツから見える白い鎖骨とvansのスニーカーが似合う細い足首が好きだった。 



フォークで小さく切ったケーキを口に入れると、甘さが一気に広がって、舌に爽やかな檸檬の香りが残った。

二つ隣の席のカップルが会計を終えて、店を出る。
ドアベルか微かに鳴って、マスターがコーヒーカップを2つトレーに乗せる。少し目があって会釈をする。
 



薄い文庫本を読み終えると、ハーブティーはすっかり冷めて、ピスタチオの欠片が2つ小さな黒い楕円形の皿の上に残っている。席を立って会計を済ませる。 


「 今日はお休みですか? 」


「はい、仕事抜け出しちゃいました。 」


「たまにはね、そういうのもいいものです。日常から少し離れると、足りてないものや本当に必要なものに気づくものです。 」


「そうかもしれませんね。ケーキご馳走様でした。 」


「今日はどうして、ウィークエンドシトロンを頼まれんたんですか?」


「  前にお店に知り合いの女性と来たんですが、その時彼女がとても美味しそうに食べていたので、僕も食べてみたくなったんです。彼女は遠くにいる彼氏の好きなお菓子なのだと教えてくれました。」


「  そうですか、ウィークエンドシトロンっていうのは、週末に大切な人を思って食べるお菓子という意味があるようです。 」


「そうなんですか。何だかとても良いお話を聞けました。ご馳走さまでした。」


  心から誰かを恋しく思う気持ちについて、多くは語らず、眩しそうに目を細めるマスターが何だかとても羨ましかった。帰り際に助手席からオレンジ色の光が差し込んできた。 


私だったら檸檬はどこに置くかな。 


 楽しそうに助手席に寄りかかる彼女を思い出した。
 


夕日を見逃してしまった、と小さな後悔をして、日常に帰る。 

旧ペンギンズバレー



この作品は、Room 201のAyaka Hanamotoのお菓子にインスピレーションを受けて書き下ろしました。Room 201もぜひ覗いてみてください。

Free-lance Eat Designer 花本采伽のウィークエンドシトロン

Ryosuke Takahashi

オンラインシェアハウス Kaede Apartmentの管理人です。
95年 北海道生まれ、道南在住
趣味は、旅、映画鑑賞、読書、カフェ巡り

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