Saint-Malo, France 2015年 夏
旅は静かだ。
フランス北西部ブルターニュ地方からイギリス海峡を通ってポーツマスを目指す。
英仏海峡でフランス北西部のサン・マロとイギリス南部のポーツマスを結ぶこの海峡がイギリス海峡の中で最も距離のある海峡でフェリーで8時間かけてフランスとイギリスを結んでいる。一方最も距離の短いのがドーヴァー海峡で、ユーロトンネルが開通して以来、バスやユーロスターでイギリス-フランス間を容易に移動できるようになったそうだ。よって、イギリス海峡を運航するフェリーは1日に多くて2本、非常に少ない。
英仏海峡はイギリスの発展の歴史上非常に有利に働いた地理上のアドバンテージだ。海洋を制するものが世界を掌握する。かくしてイギリスは大英帝国へと発展した。
今回の旅で最後に宿泊したのが、そのイギリス海峡に面するサン・マ
ロだ。
イギリス海峡に流れ込むランス川の河口に作られた要塞都市である。城壁に囲まれたその街は、中心に教会があり、高い塔が遠くからでもよく見える。非常に小さな要塞都市だがローマ時代から重要な拠点で、かつて独立国家であるとの宣言をするほど国力のある都市だった。大航海時代以降は海賊が暴れ回り、私掠船やイギリスの船を襲い巨額の富をもたらしていたそうだ。今では高級リゾート地として観光客で溢れている。
旅は静かである。
サン・マロ港を10:30に出航した船は約22ノットでイギリス海峡を渡っている。
22ノットは時速約42kmほどだ。それなりに遅くないスピードだが、広大な海原を進んでいるとあまりスピードを感じない。甲板に出て遠くなるサン・マロとブルターニュ地方の港町の景色を見渡す。白い砂浜とヨット、石造りの綺麗な街並みが徐々に遠ざかっていく。
海賊や船乗りたちは、港の灯台もしくは、サン・マロの城壁の奥に見える教会の高い塔を目指して航海していたのだろう。
旅は思い出を持ち帰ると言うよりは、思い出を置いてくるという方が近い気がする。
2度目に訪れたその場所が懐かしく、さらにゆったりとした時間が流れるものだ。戻ってくる場所をたくさん作るように旅をする。贅沢な人生だ。ぬるい潮風を感じながらタバコに火をつける。出航してからもう1時間程経っただろうか。フランスはもうだいぶ遠くに見える。潮風にタバコの煙が流されていく。昨晩の出来事をふと思い出す。
夜22時前少しずつ暗くなる海岸の砂浜を見下ろす誰もいない広場で、瓶ビールを飲みながらタバコを吸っていた時、後ろから声がした。
ごめんなさい。タバコを一本もらえるかしら?
英語だった。それも特徴的なイギリス英語だ。久しぶりのイギリス英語にほんの少し懐かしさを感じながら振り返る。
ブロンドの髪にブルーの瞳、筋の通った高い鼻はその先がほんの少し上向きに潰れている。薄い唇にシャープな顎。イギリス人だ。もちろんと言ってタバコを差し出す。ライターを出し火をつける。彼女が顔を近づけた時香水のいい匂いがした。
Are you traveling alone?
Sort of. How about you?
歳は20代後半だろうか。ヨーロッパ系の顔立ちは歳がわからない。若いが落ち着いている。綺麗な声だ。
僕は城壁の縁に座って海を見ていたが、彼女もそこに登り僕の隣に腰掛けた。そのすらっとした指でタバコを挟み、軽く顎を突き出すようにして煙を吐く。軽く僕の方を見ると、唇の端から目の端を通って眉毛の端まで綺麗な一直線が出来上がる。ヨーロピアン女性の黄金のラインだ。
恥ずかしくなって目を逸らし、波が砂浜にぶつかる音を聞きながら、彼女と少し話をした。タバコが消える数分間、そして彼女が火を消した頃、もう陽は沈み辺りはだいぶ暗くなっていた。港の明かりが水面に反射してキラキラしている。この地域は、夏には22時過ぎにようやく暗くなる。
Thanks for cigarette. Have a nice stay.
No problem, you too.
そう言って彼女は城壁から飛び降りると笑顔で去っていった。オレンジの光が海岸を照らしている。波の音が静かに響く。
波が打ちつける砂浜の先に小さな島がある。この海岸と数十メートルの細い道で繋がっているが、満潮時には渡ることができない。明るいうちは潮が引いていて、子供たちがはしゃぎながら島へ渡っていた。もうだいぶ潮が満ちていて、島への道は徐々に無くなっている。
海は女性のようだ。潮が満ちて引いていく。優しく包み込むように波が静かに満ちてきて、そしてまた静かに引いていく。飲み込まれた砂はどうすることもできず、波に遊ばれて海岸に波の模様を残す。気付くと飲み込まれていて、するといつの間にか潮が引いている。
残された僕は、空になったビール瓶に彼女が残した吸い殻を入れてゴミ箱に捨てる。優しい波の音を聞きながら、ゆっくりとホテルに戻った。
海でタバコ吸うたびに彼女の事をふと思い出すのだろうか。
思い出とは所詮そんなものだ。あなたと出会って私はタバコの味を知ったの、だから私はタバコを吸うたびにあなたの事を考えるの。そんな歌を思い出す。
さっきまで、人が大勢いた船の甲板も、人がまばらになってきた。一通り船内を探検した乗客たちはそれぞれの落ち着く場所を見つけたのだろう。もう景色も海が広がるだけだ。あと6時間もすれば、イギリスに着く。ポーツマスからはバスでロンドンに戻る。ラウンジで大学の課題をしなくては。ふと後ろから声がした。
ごめんなさい。タバコを一本もらえるかしら?
ブリティッシュアクセントの綺麗な声だ。どこかで聞いた事があるような。振り返ると彼女が笑っていた。黄金のラインだ。
もちろんと言って、タバコを差し出した。潮風が彼女のブロンドの髪をなびかせると、香水のいい香りがした。
ブルターニュ地方北西部、サン=マロ。城壁の奥には中世の街並みがそのまま残っている。中央にそびえる教会の塔を目指して船乗りはこの街を目指したそうだ。潮が満ちると、この島に渡る石畳の橋は海に沈む。(2015年撮影)
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