Primrose Hill, London 2018年 冬 ”ノルウェイの森”についての異なる解釈 後編

老人はライターで火を点けると、話の続きを話し始めた。


僕は適当に相槌を打ちながら、老人の聞き取りづらい単語と単語を繋げていった。細かいニュアンスをこぼしながら頭の中に翻訳されていく話は僕に都合にいいように再構成されていく。その過程で僕の経験にない出来事の空想はこれまで触れてきた洋画のワンシーンとして記憶されていく。


それが可笑しくて、僕は微笑みながら、老人の吸う煙草の煙を心地よく肺に入れていった。 


彼女に連れられて、プリムローズヒルを抜け、地下鉄チョークハーム駅の方へ歩いていった。途中で線路を超える橋の上で、家族連れとすれ違い、子供が線路を覗こうと欄干に空いた穴から向こう側を熱心に見つめていたのが気になって、僕も背伸びをして欄干の向こう側を見てみた。


彼女は僕の横から何か見えたかと尋ねたが、僕が特に何も、と言うと、目を細めながら微笑んでまた歩き出した。僕が昔この辺りのスタジオでバンドの練習をした事があるというと、なんの楽器を弾くのとだけ聞いて、ギターだよと言うと、そう、とだけ呟いて会話は終わった。


パブの横を抜けて路地に入る。連なったアパートメントの一つを指差して、ここよと言って階段を登り始めた。2階のドアの前に立つと、コーヒーを飲みましょう、と言って、中国語がプリントされたトートバッグから鍵を出してドアノブに手をかけた。


彼女の部屋はこれといった特徴はなく、彼女のトートバッグにプリントされていたようなコンテンポラリーアートが床にそのまま立てかけられているくらいだった。彼女はジャケットを脱いで間接照明のスイッチを入れた。今コーヒーをいれてくるから座って待っていてとキッチンに彼女は消えた。


僕は座る場所を探して適当に床にそのまま座った。しばらくして、彼女は煙草を咥えながらマグカップを2つ持ってきた。1つを僕の前に置いて、彼女は窓を開けるとそのまま窓に腰掛けて煙草に火をつけた。 


プリムローズヒルの頂上はだいぶ日が傾いて肌寒くなってきた。ここまで登って来る人の滞在時間は平均10分程度といったところで、僕と老人の前に立って景色を眺める人は行ったり来たりとゆっくり入れ替わった。


老人は目が覚めて彼女がいない事に気付いたところまで話すと、煙草を消してベンチの下に捨てた。


そして、プリムローズヒルの名前の由来は知っているかと急に僕に聞いてきた。僕はさっぱりわかりませんと答えると、花の名前だと教えてくれた。この丘にはプリムローズという花が咲くのだという。後から調べたら、それは日本語では桜草と呼ばれているらしい。


老人は花言葉を知りたいかとさらに尋ねた。the language of flowersと言ったが、首をかしげるとthe meaning of flowers と説明してくれて、おそらく花言葉の事だと想像した。老人の話によると、プリムローズの花言葉は、青春、そして初恋だと照れ臭そうに語った。


僕は妙に納得して、そして彼女とはどうなったのかと話を戻した。老人は笑ってウェストロンドンの喧騒の方に目を向けると、ただ待っているんだと呟いた。そして、そろそろ来る頃だよと丘の麓を指差した。


ちょうど犬を連れた老婦人が丘を登って来るのが見えた。老人が左手をあげると、彼女はそれに応えるようにゆっくりこちらを見上げた。 


それから彼女と僕は彼女の部屋でデリバリーのチャイニーズを食べながら、ワインを飲んだ。


僕は彼女の話し方が好きだった。いつのまにか、彼女の趣味のレコードがかかっていて、時計は夜中の12時を回っていた。もう寝る時間ね、と彼女が言った。彼女は明日は朝から仕事なのと言ってシャワーを浴びに行った。僕は彼女の煙草を1本もらって窓際に座って吸った。冬のロンドンの風が部屋に入って来て、酔いが少しずつ醒めて行く気がした。


結局僕は彼女の部屋の床以外で眠る場所を見つけられずにそのまま眠って、彼女はベッドに入った。


朝になるともう彼女はどこにもいなくて、僕はワインの瓶とデリバリーの白い箱を捨てて窓際に置いてあった煙草を1本貰って彼女のアパートメントを出た。


角のパブのテラスで煙草を吸っていた男性にライターを借りて火をつけた。昨日の夜彼女の部屋でかかっていた曲を思い出そうとしてみたが、他人の話の出来事のように感じて全く思い出せなかった。 


そして数年後、キャセイパシフィックのエアバスはイギリスの厚い雲を抜けたあと、ヒースロー空港の上空で着陸体制のまま旋回を繰り返していた。滑走路が混雑していると機長がアナウンスで告げた。キャビンアテンダントの中国語の後に早口で英語が聞こえる。


座席のモニターからはロンドン市内の夜景が雲に擦れて映っている。僕はiPhoneのプレイリストからビートルズのノルウェイの森を再生する。誰かの誤訳だと言われた神秘的な歌詞を思い出していると、ようやく機体は少しずつ高度を下げていった。


そしてイントロのシタールのメロディが響き出すと僕は数年前に出会ったプリムローズヒルの彼女と老人の話を思い出していた。

プリムローズヒルから眺めるウェストロンドンの冬

プリムローズヒルに続くリージェンツパークの紅葉

Ryosuke Takahashi

オンラインシェアハウス Kaede Apartmentの管理人です。
95年 北海道生まれ、道南在住
趣味は、旅、映画鑑賞、読書、カフェ巡り

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