被爆者って日本人だけ?

 新聞記者として広島市に赴任したのは、2018年5月から約1年間。75年前の8月6日、この町は米軍によって落とされたたった一つの爆弾により、壊滅的な被害を受けた。「原爆」だ。

 単なる数字で表現できるものではないが、約14万人が犠牲になったとされる。いや、被害はそれだけではない。原爆による放射能は、今も被爆者たちを苦しめている。

 少し前置きが長くなったが、ここからが本題。広島や長崎で被爆した人は日本人だけなのか。その答えは「ノー」だ。原爆では、日本にいた朝鮮人を含む外国人も多く犠牲になったことを忘れてはいけない。そういった観点で取材をしたのが、広島県大竹市で焼き肉店を営む姜周泰(カン・ジュテ)さんだった。


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姜周泰さん 悪の象徴、もう二度と

 「核は悪の象徴。人の頭の上にあんなものを落としてはいけん」。大竹市に住む在日朝鮮人2世の姜周泰(カン・ジュテ)さん(79)は言う。穏やかな表情であの日を振り返りながらも、原爆の怖さや受けてきた差別、分断された南北朝鮮を語る時は目を固くつむり、振り絞るように言葉を紡いだ。そんな姜さんの表情に込められた思いを聞いた。

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 韓国南部の慶尚南道出身の両親は結婚後、仕事を求めて山口県宇部市に移り住んだ。姜さんが5歳の時、広島に転居。そのころアボジ(父)は病気で働けなくなり、オモニ(母)が働いて生計を立てていた。

 被爆当時、6歳だった。爆心地から2・5キロ、皆実町(現・広島市南区)の自宅近くの友人宅に遊びに行く途中、辺りがパッと光った直後、急に暗くなった。頭を隠すようにしゃがみ込んだ。爆風で飛ばされた瓦が頭を直撃し、大きく腫れ上がった。自宅に戻ると、家は倒壊していた。下敷きになったアボジたちを引っ張り出していたオモニを手伝った。

 2週間ほどは近くの畑に畳を敷き、蚊帳を張って家族7人で暮らした。

 終戦後のある日、日の丸をつけた飛行機が低空飛行しているのを見た。飛行機に向かって「どうして負けたんねー!」と叫んだ。「日本が負けて悔しかった。それくらい自分は日本人だと思って育ってきた」

 数カ月後、嘔吐(おうと)が止まらなくなった弟が急死した。

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 翌年4月。皆実国民学校(現・皆実小)に入学した日が忘れられない。チマ・チョゴリにコムシン(ゴムぐつ)姿のオモニに手を引かれ歩いていると、「チョーセン人じゃ」と後ろ指を指された。

 学校で友人はできたものの、「あいつはピカのチョーセンじゃけ縁(へり)行ったらうつるぞ」と言われた。朝鮮人はニンニク臭い、とも言われた。オモニが作る朝鮮料理は口にしなくなった。「なんでこんなに差別されなければいかんのか……」

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 崇徳高校卒業後は、食品会社に就職。生きることで精いっぱいで、祖国に帰ろうという思いはなかった。

 ある日、職場近くにあった在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の職員たちが、公園で朝鮮舞踊やバレーボールに興じているのを見た。言葉は朝鮮語。その姿は生き生きして見えて「民族の血が騒ぎだした」。それまで話せなかった朝鮮語を学ぼうと、朝鮮大学校(東京都)に通うことにした。

 卒業後、広島の朝鮮学校の教員として働き始めた。生徒たちには「日本で育った子たちに、自分のルーツとアイデンティティーを教えることが必要」と、民族の文化や歴史の大切さを教えてきた。72年にオモニときょうだいが北朝鮮に帰国した後も日本に残り、校長も務めた。

 子どものころ差別された記憶がよみがえるから、教員人生の中で生徒たちに原爆について語ることはなかった。でも、今は違う。戦時下、朝鮮人が日本で生きてきたという歴史を後世に残す必要があると考えている。

 朝鮮半島の平和に向けた首脳会談が続いている昨今の情勢に、期待を寄せてきた。それだけに、今年2月の2回目の米朝首脳会談で合意に至らなかったことを残念がる。

 「北朝鮮もアメリカも、核兵器は全て捨てて、もう二度と持ってはいけん」。望んでいるのは「南北が歩み寄って、一つになること。民族は一つだから」。(2019.4.10)


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 被爆した朝鮮人は、姜さんのように日本にとどまった人もいれば、朝鮮半島に帰った人もいる。もちろん、韓国だけでなく朝鮮民主主義人民共和国にも被爆者はいる。

 「日本が負けて悔しかった」という姜さんの言葉は、いかに「日本人」として生きてきたかが伝わる。それでも戦後に受けた差別。オモニが作る朝鮮料理は口にしなかった。取材では、言葉の節々から「悔しさ」がにじみ出ていた。朝鮮語で「悔(ハン)」という。

 祖国である朝鮮民主主義人民共和国の写真をたくさん見せてもらった。親戚が何人も祖国にいる。そんな祖国とも日本は分断状態だ。

 たった4時間の取材だったが、姜さんの平和を望む声は重く響いた。それだけは間違いない。


大瀧哲彰

【写真】アルバムに収めた家族写真を見ながら、きょうだいらを懐かしむ姜周泰さん=広島県大竹市 、大瀧哲彰撮影

Tetsuaki Otaki

95年北海道生まれ、大阪府在住。新聞記者。
執筆した記事、取材で感じたこと、文字にならなかった取材を文章にします。北海道、広島、三重、大阪、朝鮮半島の話題が多いです。

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