Cloe、そしてY#のもう一つの落とし物
いつか見たフランス映画の主人公の恋人の名前がクロエだった。
数十年間童貞として過ごした彼の映画での名前はたしかバージルと言ったはずだ。英語で処女または童貞を意味するバージンからきたのだろう。僕がこれからする話はこのフランス映画とは全く関係ない。関係があるとすれば、この話に出てくる女性の名前がクロエということだけだ。
僕のガールフレンドはこの話が1番のお気に入りだった。
もう既に何度か話しているが、彼女が実に機嫌のいい夜は僕にワイングラスを持ってきては、ねぇあの話また聞かせてと言ってくる。彼女が仕事から帰ってきて、今日は本当に疲れたと雑にコートをソファーに掛けた時は、僕が優しくそのコートをハンガーにかけながら、この話の冒頭を語りだすと、彼女は小さくクスクス笑いながら、今日は本当に疲れているの、後にしてくれる?とキッチンに手を洗いに行く。とにかく、僕のガールフレンドは、僕の古い友人がクロエと出会った実に奇妙な話が好きなのだ。
僕の友人をここでは仮にY#としよう。Yは彼のイニシャルではなく、全く彼と関係のないアルファベットだ。全く関係がないとは明言できないー彼は昔横浜に住んでいたーが、とにかく彼はY#なのだ。#をつけたのは、村上春樹がそのように登場人物を紹介したことが実にクールだと僕が主観的に思っているだけである。あるいは、彼は僕よりも半音ほどの差で背が高い。
Y#がロンドンのキングスクロス駅の近くに住んでいた頃、彼は大学生だった。彼は大学のレポートを書くために、キングスクロス駅の少し西にある大英図書館でいくつかの文献を漁った後、キングスクロス駅のプラットフォームの2階にあるプレタ・マンジェでケーキと紅茶の飲むのが習慣だった。
イギリスの電車は、発車時刻の直前にならないと電車が出発するホームがわからない。だからいつもキングスクロス駅の改札口の前は人でごった返している。彼は吹き抜けになった2階のカフェから、ホームの人たちを見下ろして、熱い紅茶と、甘いチョコレートケーキを食べるのが趣味の変わった男だった。
彼がいつものように、プレタ・マンジェで悪趣味な人間観察を終えた後、冷える年末のロンドンをコートの襟をたてて歩き出した。寮について、冷蔵庫から取り出したリンゴを齧りながら夕食に何を食べようかと考えていた時、彼は自分のiPhoneがないことに気づいた。彼は咄嗟に記憶をとどって、キングスクロス駅のカフェに忘れてきたのだと思い出した。(彼は、吹き抜けから、面白い動きをする人物を見つけては、iPhoneのカメラを向けるという、別の悪趣味も持っていた。)彼は、急いでコートを羽織って、20分の道を小走りで戻った。途中で何台かのダブルデッカーバスが彼にきついクラクションを鳴らした。
駅に着くと、すでにカフェは閉店していて、ゴミ箱を運び出そうとする男性に、彼は、"極めて紳士的に"、iPhoneの落とし物はなかったかと尋ねた。彼は、めんどくさそうに首を横に振って、そんなものはなかったねと、吐き捨てた。彼の英語はスコットランド訛りだった。Y#は、他の店員にも聞こうとしたが、スコットランド訛りの男以外には店員が見当たらず、彼は諦めて寮に戻ることにした。 寮に戻ると、彼はパソコンを開いて、Facebookにログインすると、自分がiPhoneを落としたこと、緊急の連絡はFacebookに送って欲しいと投稿した。すぐに何人かの友人が、彼の投稿をシェアして、彼はいくつかの同情的なコメントに返信をして、その日は無くしたiPhoneのことは考えないようにしていた。彼は悪趣味な写真が誰かに見られることを気にしていたが、幸いにも彼には今日中に書き上げなければならないいくつかのレポートのことで、すぐに頭がいっぱいになった。
彼は翌日、大学の図書館でレポートを印刷して、教授に提出すると、彼は昨晩一睡もしていなかったので、一眠りしようと図書館に戻った。眠るのにちょうどいい席を見つけて(そのスペースにはイタリア人お断りと誰かがふざけて書いたポスターが貼ってあった)、眠る前に、パソコンを開いた。
Facebookにログインすると、彼は見知らぬ女性からのコメントを見つけた。コメントを読むと、その女性はクロエと名乗り、どうやら彼のiPhoneを持っていて、彼にメッセージも送ってきていた。彼は一瞬どういうことか分からなかったが、すぐに受け取りに行きたいと、彼女に返信をした。彼女からはすぐに返信があり、その日の夕方に、彼女が住むトゥーティングブロードウェイで待ち合わせることになった。ロンドン市街からZone3まで地下鉄に乗るのは少し気が引けたし、何よりも彼女を信用してよいものか酷く不安になった。彼はFacebookで彼女のプロフィールを検索したが、彼女は頻繁にSNSに顔を出すタイプではなく、わかったのは、彼女がブライトン出身で、彼よりもわずかに年上で、知り合いの女性とルームシェアをしているということだけだった。彼は、一瞬眠気が覚めたが、すぐにまた睡魔に襲われて、少しばかり昼寝をすることにした、何より、彼が座っている席はやけに静まり返っていた。彼は、誰かがふざけて書いたイタリア人お断りという張り紙に感謝して、うとうと眠りについた。
彼は、オイスターカード(ロンドンの交通系プリペイドカード)に数ポンドチャージをして、ラッセルスクエアからピカデリーラインとヴィクトリアラインに乗り継いで、ストックウェルからはノーザンラインでトゥーティングブロードウェイにようやく辿り着いた。ロンドンは、市街地からZone 1、そこから放射状にZone 2、Zone 3と地下鉄の区域が決められている。市街地から離れるほど、家賃が安く、ロンドンの高すぎる家賃が払えない学生、もしくは、寮のビールとウィードの匂いに耐えられない真面目な学生は、Zone 3から大学に通うことも珍しくない。彼は夕暮れのロンドン郊外の街を歩き、クロエが待ち合わせに指定したカフェに入った。
彼はパソコンをwifiに繋いで、カフェに到着して、窓際の席に座っている、とクロエにメッセージを送った。 彼がカフェラテを飲みきり、一緒に注文したブルーベリーマフィンを食べ終えるまで、彼女はカフェに現れず、Facebook上でもオンラインにならなかった。彼は、やっぱり誰かが自分をからかいたかっただけなのかと、ある意味で納得し、店を出ようとしたときに、クロエから返信が来た。
内容は、彼女は急用ができて、少し遅れそうだということ、よければ家に来て紅茶でも飲んで待っていないか、ということだった。家にはルームメイトがいるらしく、事情を話せばわかると彼女は短く彼に伝え、家の住所を送ってきた。彼は。自分がまるで、O・ヘンリーの短編の世界にいるようだと思いながらも、その冒険にまた一歩足を踏み入れようとカフェを出た。
彼女のアパートは、カフェを挟んだ道を南に数ブロック進んだところにあるらしかった。彼は、カフェの紙ナプキンにボールペンで簡単に書いた地図と住所を頼りに、なんとか彼女が住んでいるであろうアパートに辿り着いた。彼がドアベルを鳴らすと、すぐに慌ただしく階段を降りてくる音がして、ダークブラウンのショートカットの若い女性が出てきた。彼女は黒いスキニーパンツにブーツを履いていて、Tシャツにはコンテポラリーなアートが描かれていた。僕は、クロエに用事があって来た、と伝えると、その若い女性は、文字通り彼のつま先から頭の先までをじっくり見渡して、どうぞ、と彼をアパートに招き入れた。
"それなりに"、片付いたキッチンに座ると、彼女は何も言わずに僕の横に椅子を置いて、
「それで、クロエがなんだって?」
と彼に話しかけた。
彼は、昨日の夜から今までの出来事をできるだけ詳細に話すと、彼女は、不思議そうな顔でうなづくので、彼は、クロエから何も聞いていないのかと聞くと、彼女は肩をすくめて、
「まぁ、きっとすぐクロエは帰ってくるよ」
と言った。
彼が、キッチンの壁に貼ってあるいくつもの肖像画のデッサンを見ていると、
「それはクロエが描いたんだよ」
と、彼女がキッチンの窓に腰けて赤いマルボロのケースからタバコを一本出して吸い始めた。クロエは、ノートのページを破いて、何人かの肖像画のラフスケッチを描いていた。中には、体の部位のデッサンや、幾何学模様のスケッチも混ざっており、この二人はロンドンのデザインスクールで学んでいるか、アートを専攻しているのだろうと彼は想像した。
それから、数分して、アパートのドアが開く音がして、クロエが帰ってきた。彼女のルームメイトは、タバコを消して、ワインの空き瓶に入れて、軽くコルクで蓋をすると、クロエを迎えに玄関に歩いて行った。
クロエがキッチンに入って来たので、彼は、立ち上がって会釈をすると、クロエはひどく気まずそうな顔をして、
「私の名前は、確かにクロエだけど、ごめんなさい、あなたに起きたこととは無関係なクロエだと思う。」
と言った。
クロエは、明らかに東側ヨーロッパの女性の顔立ちをしていて、彼がFacebookで見たクロエの写真とは違って見えた。彼女は鼻筋がはっきりとしていて、太く、長い眉毛の先と薄い唇の端を結ぶと綺麗な正三角形ができるようだった。そして、何よりも彼女の英語には彼が聞き慣れない大陸の訛りが混じっていた。
おそらくこの見知らぬキッチンにいる3人の全員が困惑していて、その真ん中をマルボロのタバコの煙が漂っていた。いよいよ、彼を先に出迎えたショートカットの若い女性が、彼を不審な目で見て、「本当に住所ここで合ってる?」と口を開いた。
彼は、カバンからパソコンを取り出し、wifiパスワードを聞いて、Facebookにログインした。 すると、本物(どちらも本物だが、彼にとっては、よく知っている方)のクロエからいくつかメッセージが来ており、私は家についた、というメッセージと、彼女のアパートの窓から撮られたであろう、アパートの場所を示す写真が添付されていた。その窓からは、アラブ系の移民がやっているコーナーショップが写っていて、それは、さっき彼が間違いなく通り過ぎた店だった。
一緒にその写真を見ていたクロエが、「あぁ!」と小さく叫んで、ここから2、3ブロック地下鉄の駅に向かう通りだ、と彼に早口で伝えた。ルームメイトの女性がもう一本のマルボロに火をつけて、軽く咳き込みながら、「なんなのこの状況」と小さく笑った。彼は、"極めて紳士的に"、クロエとそのルームメイトにお礼を言って、正しいクロエ(どちらも正しいクロエだが、彼が引き返すべき方のクロエ)の家に向かって走り出した。
それから、彼は先ほど通り過ぎた店の前に着き、向かいの道路へ渡ると、アパートの前で一度写真で見たことのあるクロエがアパートの玄関の前に立っているのが見えた。彼は、彼女に近づいて、
「君がクロエかい?」
と声をかけた。
クロエは、
「あなたがY#?」
と、彼に微笑みかけた。
「それで、僕の…」
と、彼が珍しく非紳士的にすぐに話題を切り出すと、彼女は、彼にiPhoneを渡した。
「ごめんなさい。あなたのiPhoneの中身を見てしまったわ。」
「いいんだよ。君はあのカフェで働いているの?」
「そう。忘れ物は、店に置いておくんだけど、私昨日急いで帰った時に、一緒に持って帰ってしまって。そしたら、あなたのiPhoneが震えて、見てみたらFacebookの通知で…」
彼女は慌てながら状況を説明すると、彼が投稿したFacebookの投稿に対するコメントが見えたようだ。彼は、iPhoneにロックをかけていなかったので、彼女はそのままFacebookで彼の名前を知ったらしい。彼女は自分のアカウントから、Y#にメッセージ送り、彼をここまで呼んだのだった。彼は、そこまで話を聞くと、ようやく落ち着いて、彼女にお礼を言った。そして、実は住所を間違えて、違うアパートに行ったこと、そしてそこで偶然にも違うクロエに出会ったことを話した。彼女は、「信じられない!」と終始興奮していた。
彼の目の前のクロエは、写真で見たように、ブロンドの長い髪を耳にかけて、彼よりもわずかに背が高かった。美人とまでは言えないが、整った顔立ちをしていて、おそらくほとんどのイギリス人の女性がそうであるように、高い鼻の先が上向きに少しつぶれていた。そして、何よりも彼女の英語にはイギリス南部の訛りがあった。すでに陽が沈みかけていて、眩しいオレンジがアパートの煉瓦の色に反射して、街全体が、オレンジから夜の紫へと色を移そうとしていた。彼は久しぶりに、天気のいい夕暮れに目を細めて、そろそろ帰るよ、とクロエに伝えた。クロエは、まだ興奮している様子で、ハグをしてもいい?と彼に訊ねた。彼は、もちろんといい、2人は軽く抱き合った。彼の耳に彼女の息が少しかかり、彼はロンドンの冷える年末へ戻っていった。
それからしばらくして、彼はまた、キングスクロス駅のプレタ・マンジェにいつものように向かった。しかし、この日、彼は大学のレポートを書く必要ななかったので、大英博物館へは行かなかったし、彼は吹き抜けから、慌ただしく何度も電光掲示板を見つめる観光客にカメラを向ける悪趣味もやめようと決めていた。彼は、いつもより慎重にカフェに入り、熱い紅茶とチョコレートケーキを注文して、吹き抜けに面した席に座った。
その日は、彼のiPhoneを見つけたクロエの姿は見つからず、彼女はクリスマス休暇でブライントンに戻ったのかと彼は思った。
しばらくすると、彼の紅茶とチョコレートケーキが運ばれてきた。
彼が店員を見上げると、そこにはクロエが笑って立っていて、見覚えのある紙ナプキンをテーブルの上に置いた。
それは、彼がトゥーティングブロードウェイのカフェで、彼女の住所と地図をメモした紙ナプキンだった。クロエは、その紙ナプキンをもう一度手に取って、広げると、そこには、彼の顔をボールペンで描いたデッサンと英文がが付け足されていた。
彼が記憶をたどると、もう一人のクロエの家のキッチンのテーブルの上に、その紙ナプキンを忘れて来たことを思い出した。
もう一人のクロエが描いた彼の顔は、とても繊細な線で象られていた。写実的なデッサンの下には英文が一文書かれていた。
「Y#のもう一つの落とし物、そして、今年1番の奇跡的な夕方」
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