一つの季節の終わり

性転換手術を受けるつもりだと彼が言った時、僕はあまりに実感を持てなかった。 


彼は昨日の夕食にナポリタンを食べたのだと同じくらいの内容を話したかのように、僕の混乱に拍子抜けした様子で、細い1mmのピアニッシモに火をつけた。 


彼とは中学高校の同級生で、僕たちが別々の大学に通うようになってからもこうやってカフェで2時間程度話をした。一緒に出かけることはなかったし、お互いの家を行き来するような事もなかった。これくらいの距離感がお互いに心地よかったのだと思う。彼の服装はいつも特徴がなく、あれから何日か経ってから、その日の夜に彼が何を着ていたのか思い出せなかったが、いつも小綺麗な整った身なりをしていた。 


彼は昔から男の子というよりは女の子のような好みがあったようだ。彼の上には姉が3人いて、その末っ子として生まれた彼は父親からかなりの愛情を持って育てられていたようだった。小学生の頃に、僕が新しいプラモデルを買ってもらったと彼に自慢した時、彼はまるで興味がないといった素振りは一切見せなかったが、どこか彼の本心を押し殺したような冷たい空虚な瞳をその大きな黒目の中に見た気がしていた。勿論僕は、それがなんなのか当時は知るよしもなかったし、それがどういう事なのかをうまく言語化する事ができなかったので、新しく買ってもらったおもちゃの話は別の友人とした方が多いに盛り上がるのだいうことを経験で学んでいった。 


後から聞いた話では、彼は玩具屋さんに並んでいる、人間の服を着た小さな動物たちの家を作っていくような女の子向けの玩具をとても魅力的に思っていたらしい。3人姉妹と一緒に遊んでいる時が、彼が本当に楽しいと思っていた時間であって、彼女たちが成長して中学、高校に上がっていくにつれて、彼の玩具に対する感情が周りの男の子とはどうやら違うようだと気づき始めて、彼はその気持ちを隠すようになっていった。


彼の父親が誕生日プレゼントに彼に与えた、1/35の戦車の模型に対して、彼は胸の奥を氷柱ですっと突かれるような痛みを感じていた。しかし、彼は箱を大事に抱えて、部屋に戻り、その日のうちに模型を完成させた。彼は驚くほど手先が器用だった。そして、出来上がった戦車の模型を勉強机の上に飾ってから、自分の与えたプレゼントを気に入ってくれたことへの安心感を示すように、滅多に彼の部屋に入ってこなかった父親が彼の勉強する様子を見に来るようになって、ほっと胸を撫で下ろすような感覚を得た。彼は自分の内側の感情を押し殺すことで、周りの人間がこんなにも幸せそうな表情をするものかと、幼いながらに、彼はこの社会の仕組みに気づいたような気がしていた。 


絶対に不幸にならない考え方を見つけた気がするんだ。 と彼が話した事がある。 


僕が、付き合っている彼女の生理周期をapple watchでいつでも見れるようにしているんだ。と彼に話した時、彼は腹を抱えて笑いながら、どうしてそんなことをするの、と僕に訊ねてきた。勿論僕は好き好んで彼女の周期を知りたいと思っているわけではなくて、彼女の方が、僕に求めている事なんだと説明をしていく中で、僕自身なんでそんなことをしているのか分からなくなっていることに気がついた。 


「君も君の彼女も、自分ではどうすることもできない部分を理解したくて、そして苦しんでいるんだと思うよ。 僕たちが抱く感情は、周りの外的な要素によって影響を受けるけど、それを受け取って自分の気持ちとして納得させているのは、内側の自分自身でしかないと思うんだ。誰かに嫌なことを言われて傷ついたとして、それは相手が言った言葉に傷ついたというよりも、それを受け取った自分の内側に何か深い碇みたいなものがあるんだと思うんだ。でも逆に、幸せとか、平和な気持ちも自分の内側にしか存在しないんだと思う。結局自分自身の心との向き合い方がわかれば、どんな感情も自分次第で受け流すことができるんだよね。」  


彼はゆっくりと言葉を繋ぎながら話し始めた。途中で彼の吸うタバコの煙を2、3回ゆっくり肺に入れるとき、僕は彼の話す言葉を逃さないように、記憶するようにしていた。 

 

「君の彼女は、彼女がどうすることもできない君の感情を理解したいと思っているし、君の感情を彼女の方向に向かわせたいと思っているんだ。だから、彼女は自分の感情を全て君に伝えようとして、それと同じように君が君の感情を彼女に伝えて欲しいと望んでいるんだと思う。」  


「でも、僕はそれをしない。というよりも、僕は彼女に対して自分がどう思っているかが分からないんだ。」  


「そうだよね。だから君は、彼女の生理周期を腕時計に表示しているんだね。」  


そういうと彼はまた大きく笑って、すっかり冷めたシナモンミルクティーを一口飲んだ。 


「僕は彼女のことを嫌いなわけではないんだよ。」  


「うん、わかる。でも、嫌いではないということが、時に好きという感情とイコールってわけでもないんだよね。」  


「そうなんだ。でも、僕の彼女はそれを理解できない。」  


「君も、君の彼女も、自分がコントロールできない相手の気持ちをどうにかしたいと思っているんだよ。でも、相手の感情なんて絶対に理解できないし、理解できたところで、自分に都合の悪い場合がほとんどだよ。だから、君も君の彼女も辛いんだ。 」


「そうかもしれないね。僕たちは実に不幸なのかもしれない。」  


「君たちだけじゃないと思うよ。誰かと人間関係を築くとき、僕たちはほとんど不幸で、それに気づかないようにお互いを愛するんだと思うよ。」  


「絶対に不幸にならない考え方ってどういうこと? 」


「そうだね。だから、自分の気持ちに素直に従うことだよ。それで相手が傷ついたとしても、それは相手の心の内側の話なんだ。あらかじめ、傷つくように相手が思っていたことなんだと思う。だから、自分の感情が相手に与える影響は、その前から、相手が実は内側に隠し持っていて、気づかないように蓋をしているようなものなんだと思うんだ。だから、結局、自分の感情以外をコントールすることはできない。それを理解することができれば、幸せも、不幸も、全部自分の中にあることになる。そうすれば、自分の幸せにだけ向かって、選択を積み重ねて行けばいいんだよ。」  


「なるほどね。確かに僕は彼女の生理周期をコントロールすることはできない。」  


彼は、また笑って、本当にそうだよ。と小さく呟いた。 


僕は君が彼女に対して抱いている感情が手にとるようにわかる気がするよ。と彼が呟くと、やはり僕は彼が過ごしてきた人生について、深く考えることを避けているのだと心のどこかで思っていて、そして、そのことを彼も承知しているような気がして、一つの季節の終わりのような寂しさを感じた。 


あれからしばらく彼とは合っていない。彼の手術がうまくいったのかどうか僕は知らない。 彼女とは小さな喧嘩をして、2週間連絡を取っていない。胸の中がスーッとしていくような心地よい風が吹いて、大きな港があるこの街はようやく春日の気温になるだろうと、朝のラジオキャスターが告げていた。僕たちが自分の感情に一つの区切りをつけるとき、同じように季節も移り変わっていくのかもしれないと思った時、うっすらと桃の花の香りがした。 

(このカフェのこの席で僕は毎週何かを書いています。夏目漱石とミルクティーが最近のお供。)

Ryosuke Takahashi

オンラインシェアハウス Kaede Apartmentの管理人です。
95年 北海道生まれ、道南在住
趣味は、旅、映画鑑賞、読書、カフェ巡り

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