Chocolate brownie
Room 201のAyaka Hanamotoとの共同制作第2回目です。
バレンタインデーに向けて、チョコレートブラウニーが登場する話を書いてみました。
構想が何度も行ったり来たりして、結局前回のWeekend Citronの続編のような形にしました。作中の女性は前回のWeekend Citronに出てくる女性と同じ女性です。
注)僕の書いているものに登場する女性たちにはもちろんモデルとなる女性がいる場合がほとんですが、基本的に会話やその他の所作に関しては全て僕の妄想なので、詮索は不要です。
彼女と会うのはこれが13回目だった。
もっと正確にいえば、14回目だ。
彼女と会った回数を覚えているのは、僕が就職活動でアルバイトを辞めようとしていたタイミングで彼女が僕の代わりに採用されたアルバイトだったので、彼女のシフトの回数をなんとなく記憶していたからだと思う。 大学時代アルバイトをしていたバーで僕が辞める数週間前に入ってきた女性だ。
僕より3つ年上で、顎で切りそろえられた栗色の髪がいかにも意思の強そうな彼女の性格を表していた。切れ長の目の上の眉毛は、流した前髪で隠れていて気の強そうでいながら、遠くを見つめる彼女の瞳を際立たせていた。僕がお店を辞める前に数回一緒に働いた。右手の薬指と左手の小指のシルバーの指輪が似合う素敵な大人の女性だった。彼女の作るソルティドッグを一度飲んだことがある。グラスの縁についた塩が甘く舌で溶けながら、ゆっくりと心地よくアルコールが回っていく。
その日は彼女と大学の駐車場で待ち合わせをした。 白のスズキのSwiftでスマホを眺めながめながら待っている彼女の横に車を停めて僕は待ち合わせに5分遅刻した。彼女はすぐに僕に気付いて車を降りる。助手席のドアを開けて彼女が車に乗り込んだ時、香水のいい香りがして、僕は少し緊張し始める。
2年ぶりに彼女から連絡があったのだ、それまではほとんど話したこともなかった。彼女には年上の彼氏がいて、東京で公務員をしている。この春から彼女も東京に引っ越して同棲を始めると話していた。駅前を通り抜け、観光客で溢れる赤レンガのスターバックスを抜けて海岸線の道路に出た時に、人はいつから好きだという思いを簡単に伝えられなくなったのだろうと思い始める。
僕たちがアルバイトをしていたバーの青いドアを開けると、店内の湿気が冷えた頬に不愉快にぶつかる。ドアベルが微かになってその音に驚くと彼女が少し笑う。お先にどうぞと手を差し出すと、ありがとうと軽く微笑んで店内に入る。ドアを閉めると、またベルが微かに鳴る。
奥から出てきた女性に窓側の席に案内され、僕たちは夜の海を見渡せる席で向かい合って座った。 彼女はモヒートを、僕はサングリアを注文する。 少し迷って、彼女はチョコレートブラウニーも注文した。一緒に食べよう。と僕に微笑みかける。美味しそうですね。とだけ僕は言って水を一口飲むと、お店の女性は注文をメモしてテーブルを離れる。
「あ、これまだあるよ。」
彼女はドリンクメニューを指さした。
ピノーデシャラント ブランデーの一種でワインのような香りが特徴の食後酒の名前だ。 店長にチョコレートのデザートに合うお酒を探してくれといわれて僕が発注したお酒だった。
チョコレートブラウニーとピノーデシャラント。
この組み合わせ頼まれたの、お客様が初めてです。
そう言って僕が彼女にくびれたブランデーグラスを差し出した1週間後に彼女がこのバーで働き始めた。
「懐かしいね。もう2年も経つんだね。」
「この店辞めてどのくらいですか?」
「君が辞めてからちょうど1年くらいだから、1年くらい前かな。さっきのバイトの子も全然知らないなぁ。」
「この店、入れ替わり早いですもんね。」
「そうだね。立地のせいかな。店長かな。」
「東京の仕事決まりましたか。」
「うーん。なんかもう専業主婦でもいいかなって思っちゃう。」
「まじっすか。彼氏さん結構稼いでるんですね。」
「うーん。どうなんだろ。」
彼女はそう言って笑うと、運ばれてきたモヒートのマドラーをストローと勘違いして口に運ぶ。
「あ、それ。」
「ね、ストローだと思っちゃった。」
そう言って笑って、ミントの葉をゆっくり回す。
グラスに氷がぶつかって綺麗な音がする。
そうだ僕はこの音が好きだったんだ。
先程の女性がチョコレートブラウニーを運んでくる。 サングリアがまだ残っていたが、僕は追加でピノーデシャラントを注文する。
グレーの皿にブラウニーが積み木のように重なっている。軽く塗した粉糖と、生クリームがたっぷりかけられている。 薄く切られた金柑の香りが心地よく鼻腔を刺激した。
「カカオの木にも花が咲くって知ってた?」
彼女がチョコレートブラウニーをフォークで小さく切って、添えてある生クリームを少し乗せて僕に尋ねてきた。 カカオ豆がチョコレートの原料として熟す前に、その幹に小さな白い花をいくつも咲かせるらしい。
「そういえばこの間、職場の研修でお菓子の加工工場に行きましたよ。加工される前のラグビーボールくらいのカカオ豆の匂い、少しキツくて意外でした。」
「へぇ、そうなんだ。」
彼女はその話には少し興味なさそうに、急いで話を続けようとする。
「それでね、その白い花がカカオの花なんだけど、その花言葉知ってる?」
「さぁ、わからないですね。」
カカオの木に花が咲くことさえ知らなかったのに、花言葉なんて想像できるはずもないと言おうとしたが、そこでさっきの女性の店員が40mlのくびれたブランデーグラスを運んできた。
「ピノーデシャラントです。」
短くそう言って、またカウンターへ下がっていった。
「初恋とか片想いって言うらしいよ。カカオの花の花言葉。」
「南国で育つにしては、なんとなくイメージに合いませんね。」
僕が呟くと、
「ちなみに、カカオの言葉の意味は「王様の食べ物」っていうらしいよ。」
と彼女が付け加えた。
「そっちの方がしっくりきますね。」
くびれたグラスを傾けながら、ブランデーの香りをかいでいる僕の目線が一瞬彼女と重なって焦る。
「ブラウニー美味しいよ。分けてあげる。」
ほろ苦い香りの後に、生クリームと重なったチョコレートの甘さが口に広がる。 一緒に口に入れた飾りの金柑の皮の外側が思っていたよりも苦かったが、甘酸っぱい後味が舌にざらっと残った。金柑にも花言葉があるのだろうか。
僕たちはその後も、他愛もない話をして、彼女はトイレに席を立った。 ちょうどジョージウォーリントンとソロが終わる頃に、彼女が席に戻ってくる。イタリア出身のジャズトランペット奏者だったっけと、ポケットのiPhoneを探しているところだった。彼女は追加で頼んだグラスワインを一口飲んで、皿に残ったブラウニーの欠片をフォークでまとめている。
「そういえば、明日バレンタインデーですね。そう考えると、片想いってなんか急にしっくりきますね。」
「わかる。」
「彼氏さんにチョコレート送るんですか?」
「ううん。私たちのところは、いつも彼氏が花を送ってくれるの。」
「紳士ですね。」
「いいでしょ。愛するより、愛される方がいいのかもしれないね。」
そう言って彼女は微笑んだ。まっすぐな黒い瞳が笑うと完全になくなって、鼻筋に入った縦のシワに思わず見とれて、焦ってもう一度グラスを探す。顎を突き出して、最後の一口を飲みきろうとした時、ブランデーグラスの細い口が鼻に少し当たって、苦い後味が舌を伝っていった。
「僕、最初にブラウニーとピノーデシャラントを注文したお客さんに必ず話しかけようって決めてたんです。」
「そうだったんだ。それがつまり私だったってわけね。」
「はい。そしたら、すぐにバイトで入ってきたんで、驚きましたよ。」
「あのお酒、デザートにピッタリだって書いてあったから。そしたら本当に美味しくて、このお店も店員さんもセンスがいいなって直感で思っちゃった。君はすぐに辞めちゃったけどね。」
しばらく沈黙が続いて、今度はビルエヴァンストリオのライブ収録音源にBGMが変わっていた。 そろそろ出ようか、彼女が言って僕たちは会計を済ませた。
「僕たち、車で来ましたけど、2人とも飲んじゃいましたね。」
コインパーキング高いでしょと言って僕に2千円を渡して彼女はタクシーを拾った。私は帰るけど、君はどうするの、と彼女は聞いたが、僕は近くの安いホテルに泊まることにした。そう、じゃぁまたね。と彼女は笑ってタクシーに乗り込んだ。
「あのね、私あの頃の君のことが好きだったよ。またね。」
時に言語化できない感情が胸をいっぱいにする時がある。 僕の場合はそれが頻繁に起こって、軽いパニック発作を引き起こしそうになる。 人はいつから好きだという思いを簡単に伝えられなくなったのだろうと思い始める。この時もまた、彼女のまっすぐに感情を表現する強さを、ひどく羨ましく思ってしまう。
僕もあなたが好きでした。
はっきり発音できたかは覚えていない。タクシーが夜の街に彼女を運んでいった排気ガスの不愉快な匂いがした。そろそろ春物のコートを出しても良いだろうかと、まだ冷える夜の道をゆっくり歩いた。
この作品は、Room 201のAyaka Hanamotoのお菓子にインスピレーションを受けて書き下ろしました。Room 201もぜひ覗いてみて下さい。
Free-lance Eat Designer 花本采伽のチョコレートブラウニー
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