先生と僕 一 出会い
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
夏目漱石の『こころ』はこのようにして始まる。
僕は勝手に夏目漱石の後輩であると言い聞かせている。 とはいえ、僕は、夏目漱石(本名:夏目金之助)が在籍していた帝国大学(今の東京大学)の英文科を卒業したわけではない。 夏目漱石がイギリス留学時代に学んだ、UCL(University College of London)が、ロンドン大学(University of London)の一つであり、僕が、そのロンドン大学を構成するもう一つの大学に留学していたことから、彼の後輩を自称しているのである。さらに言えば、帝国大学を卒業した後、夏目漱石は教員として英語を教えていたことに対し、僕も大学を卒業後、英語教師として教鞭をとっているため、夏目漱石との関連はかなり深いと言えるのではないか。
僕もその人を先生と呼んでいる。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
僕が先生と出会ったのは、寂れた地方都市Hの西部地区にあるバーのカウンターだった。 その日僕は友人夫婦の離婚相談を受けた後だった。友人である夫の浮気と彼の妻に対する想いを同時に聞かされ、彼の身に起きている事象に対して気の利いた助言ができずに、落ち込む彼の背中を何も言えずに見送った後だった。僕はそのままカウンターでウイスキーのグラスを傾けなが1人で今日聞いた話を整理しながら、次に彼に会うときにどんな話をしてやれるだろうかと頭を悩ませながら悔悟の酒を飲んでいた。
カウンター越しに50代半ばの女性マスター(彼女は自分のことをママと呼ばれるのをひどく嫌う)が「あら、今夜は先生がいらっしゃったわ」とやけに大きな独り言を呟いた後、ドアベルが微かに鳴って、初老の男性がお店に入ってきた。男性はブラウンのトレンチコートを羽織っており、まさに紳士の要領でかぶっていた帽子を上げて軽く会釈をした。男性は女性マスターにコートを脱ぐのを手伝ってもらいながら、グレーのマフラーを外すと、「ご機嫌よう」と僕から一つ席を空けてカウンターに腰を下ろした。
「ご無沙汰ですね。」と女性マスターが声をかけながら、ロックグラスにウイスキーを注いだ。
「ええ、学生は冬休みに入りましたからね。今日が仕事納めでしてな。随分と外は冷えてきましたよ。」
先生は、そう言ってグラスをゆっくり持ち上げると、目を細めながらウイスキーの香りを楽しむようにして時間をかけながらグラスを傾けた。 僕がその所作に見惚れていると、大きな氷がグラスに当たって綺麗な音を立てた。先生はグラスを置くと、僕の方へ体を向け、「ご機嫌よう」と丁寧に発音した。
これが僕と先生の出会いである。 先生の年齢や服装、そのゆったりとした動作の一つ一つを的確に表現できるほど僕は文才に富んでいないし、先生と僕の間で起きた様々なことに対してその描写は特筆すべきでもないと思われるので、これから先、先生に対する詳細な描写をするつもりはない。ただ、初老の上品な紳士として、読者の皆さんのイメージが崩れないように、先生が僕に話してくれた言葉は忠実に文章にして記していきたいと思う。いずれにせよ、2度目の寒波が日本中を襲い、観測史上最も寒いと言われた冬が始まった12月の末に僕と先生は出会ったのである。
「先生というのは、先に生まれたものと書きます。先生というのは、ただそれだけのことなのです。」
先生は2杯目のウイスキーを飲みながら僕に語りかけた。
「私は、あなたより数十年先に生まれた。ただそれだけです。それでも人は先生と呼ばれる人に多くの期待をしてしまう。先生は何か答えを持っているのではないかと錯覚して、私たちの発する言葉を待っているわけです。しかし、私から発せられる言葉は、私とあなたの間にある年齢の幅からしか生まれることはない。何か特別なことを話せるわけではないのです。」
「僕も、教員として生徒と接していると、先生と呼ばれることが日常となり、先生という言葉が持つ意味がわからなくなってしまいます。僕は、生徒と向き合うために多くの時間を費やして勉強をしてきました。しかし、先生と呼ばれるほど人に誇れる人生を歩んできたわけではありません。でも、明日も僕は先生と呼ばれます。」
「あなたが感じている違和感はとてもよくわかります。でもね、先生と呼ばれることに躊躇ってはいけないし、驕ってもいけない。先生とは、ただ先に生まれたものなのです。」
そうですか、若い教師。とても素敵じゃないですか。そう言って先生は、女性マスターに3杯目のウイスキーを頼んだ。
「でも僕は、友人にロクな助言もできないし、教師としての経験も少なく、生徒を導いていくことができる自信がありません。」
「若い時というのは、正解を求めてしまうものです。しかし、世の中に正解というものは存在しません。」
「正解ですか…」
「もし私の人生が正解なのだとしたら、あなたの人生は不正解ということになります。あなたが正解なのだとしたら、私は不正解なのでしょうか。正解などというものはひどく曖昧だと思いませんか。」
「確かに。」
「あなたが正解を求めるのは、人と比べているからです。正解などというものはありません。自分の選択を正解にするしかないのです。」
先生はそう言って先生はお手洗いへ席を立つと、女性マスターが少し笑いながら僕の頼んだシャンディガフを置いた。
「今日の先生は、なんだかとても嬉しそう。いつもより饒舌。」
「大学の教授なんですか?」
「そうよ、この坂を登ったところの大学で教えてらっしゃるそうよ。何を研究しているかは私もよく知らないけど。」
先生がお手洗いから戻ると、僕と先生はまたしばらく話をして、先生はタクシーを呼んで先に帰った。帰りがけに、名刺を一枚渡して、もし何かに迷うことがあったらいつでもきなさい。何かの役に立てるかもしれない。と言った。先生がドアを開けると、ドアベルが微かになって「では、ご機嫌よう」と言って先生はタクシーに乗った。
僕のように現代の日本を生きる若者には、先生と呼べる人が少ないような気がする。 誰もが表現者として自分を発信できる時代、人と人とのコミュニケーションが減って、直接言葉を交わす時間が少ない時代。1人の絶対的なリーダーが存在できない社会の構成。今の時代は、1人のリーダーが皆を引っ張っていくのではなく、チームとして動いていく時代だと本で読んだことがある。封建的な人間関係は社会悪とされ、先輩が後輩に気を使う時代。僕たち若者は、人間関係から学ぶ何か大切なものを失っているように感じる。そもそも魅力的な大人っているのだろうか。カリスマ的なリーダーは必要なのだろうか。資本主義の中で、モノと情報に溺れかけながら、人類として全く原始的な心の感情に左右される僕たち若者に必要なのは、僕が出会った先生のような人なのではないかと思う。
「人間の心を追求するものはこの小説を読め」
夏目漱石は自筆の広告文の中で、『こころ』に対してこう書いた。
「愉快ですね。」
『こころ』の中で、初めて先生と出会った鎌倉の海の中で、「私」が発した言葉である。 しばらくは夏目漱石が小説を執筆しているような気分に浸りながら、僕と先生が語り合った愉快な話を少しずつお話していきたいと思っている。
つづく…
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