バレリーナ

数年前に改修工事された市民会館の大ホールの2階席、一番後ろの真ん中の席に座る。


 ほー25 


公演開始五分前を告げるブザーが控え目に鳴り響く。 

観客はソーシャルディスタンスを保った隣を一つ空けた席で、身を乗り出して談笑をしている。
少しずつ会場が緊張感に包まれていく。

ロビーとホワイエは完全に真新しく改装されていて、数年前の暗いホールの面影はない。
有名なデザイナーによって一新された真っ白なロビーとは対照的に、この大ホールと座席は当時の匂いがまだ残っている。 


やけに座り心地の悪い椅子と剥がれかかった防音加工の壁と、時代遅れの幕には白鳥が夕陽に向かって羽ばたいている。

座席を見渡しながら、彼女の後ろ姿を探してしまう。 


頭上でまとめた黒髪のお団子頭は今日も見当たらない。 

いつか、染め過ぎた茶髪のボブヘアーもきっと今日は見当たらない。 

楽屋口を抜けた喫煙所は、受動喫煙防止の観点から撤去されて、ラッキーストライクを吸う彼女の姿も見当たらない。 今日のバレエ教室の定期公演のポスターには、札幌から引き抜かれた若手講師の写真が大きく写っている。 


 第一部:白鳥の湖
 


地元のバレエ教室の子供たちの晴れ舞台である。
小学生から高校生までが通うこの教室の秋の定期公演。
先輩の引退公演であり、最後には感動的なお決まりのサプライズが待っている。
 


「もうさ、私たちの時代って終わってしまったのかもしれないって、最近少し考えちゃうんだよね。」


 数ヶ月前に、彼女はこのバレエ教室の講師をやめた。 


歳に不釣り合いな、スパルタ的な指導が保護者との溝を広げていった。
保護者同士の井戸端会議が、バレエ協会の理事の間にまで広まって、さらには、保護者に頭の上がらない団塊世代と、
彼女のバレエに対する強い指導観は平行線で、両者一歩も引かない、不穏な時期が半年続いた。
ついには、保護者同士の家庭の陰口が、バレエ教室に通う生徒の間でさらに加熱し、それが指導者への不信感へと繋がっていった。
有望な高校3年生が、オーバーワークで疲労骨折し、最後の秋の定期公演が絶望的になったのが最終的な決め手となった。 


彼女が、バレエ教室を出ていくと、すぐに彼女より5歳若い大学院生が彼女の後を引き継ぐことになった。理事長の親戚らしい。

新人若手現役バレーリーナによる、初心者のためのバレエ教室。
教室のホームページも様変わりし、毎日の練習がブログにアップされるようになり、頭の硬かった理事たちの他に、街の議員や市役所の人間も
この市民会館を訪れるようになった。
 


「ほんと、笑っちゃうよね。自分を信じていたらいつか報われるって、嘘なんだって思っちゃった。」 


 市民会館から市電を挟んで向かい側の、純喫茶で、タバコの灰を落としながら彼女は呟いた。
少し痩せているような気がした。彼女が微笑むと、とても魅力的だった歯並びの綺麗な前歯が、喫茶店の照明で影になって、ひどく不健康に見えた。
コーヒーの湯気が、彼女の細い鼻先にぶつかって、彼女がコーヒーを覗き込んで、僕を見つめた時、彼女の大きな瞳が潤んでいたのは間違いない。 



 数ヶ月が過ぎて、木枯らしが手先を通り抜けるとき、小さな痛みを感じて、そろそろ手袋を出さなくてはと考えていた時、バレエ教室の定期公演が今週末開かれることを知った。
 


彼女は見に来ているのだろうか。
 


いつも、前列の方に座り、心地よく揺れていた彼女の後ろ姿を探してしまう。
彼女は決して涙を見せなかったが、毎年、生徒の卒業を誰よりも悲しんでいたのは彼女だった。
毎年講演の後に、生徒の演技に誰よりも感動していたのは彼女だった。保護者が撮影したビデオテープよりも的確に、生徒の腕の角度、足の運び方を記憶していた彼女は、公演の後には、向いの喫茶店で、次の日の練習のメニューをノートに書き連ねていた。 


今日は、彼女の姿は見つけられそうもない。
第一部が終わる少し前に、僕は会場を出た。 


来週から一気に気温が下がるらしい。彼女はどこにいるのだろうか。


 中学3年生の秋、彼女が踊る白鳥の湖を観に行った時。近所の花屋で、母親にもらった1000円で買った花束を受付の係の人に渡した緊張感が、その日の夜まで続いて、次の日熱が出て学校を休んだ。彼女は僕に夜電話をしてきて、

「花、ドライフラワーにするからね」

と笑っていた。翌日に、僕はお礼にハンカチをもらって、彼女はバレエを続けるために留学した。 


数年経って、「私たちの時代は終わってしまったのかもしれない」と呟いた、彼女の想いを僕は一緒に持てるほど強くはなかった。
ホールを抜けて、関係者出入り口にこっそり入り、楽屋を通り、裏口から駐車場にでて、一本タバコを深く吸った。
足元に、薄く口紅のついた吸殻を見つけて、僕は涙が止まらなかった。  

Ryosuke Takahashi

オンラインシェアハウス Kaede Apartmentの管理人です。
95年 北海道生まれ、道南在住
趣味は、旅、映画鑑賞、読書、カフェ巡り

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