やればできるは魔法の合言葉?
「やればできる」ーこれは私の母校、済美高等学校の校訓である。校歌でも「やればできるは魔法の合言葉」というフレーズが登場する。済美高校は特に野球部が有名だ。創部2年で甲子園初出場、初優勝という快挙を成し遂げ、強豪校の仲間入りを果たした。私が高校2年生の頃には甲子園準優勝を成し遂げている。また、これは余談だが、私はこの大会で応援団長を務めており、今でも私の平凡な経歴の中で一際異彩を放っている。
甲子園では勝利校は試合後に校歌を合唱する。そこで母校の「やればできるは魔法の合言葉」が、ユニークな歌詞としてメディアでも取り上げられた。また、小泉元首相が所信表明という極めて厳粛な場でこの歌詞を引用したことも世間を賑わせた。言葉として非常にキャッチーでポジティブであり、しかも実際にその言葉を校訓としている高校が甲子園で快進撃を見せた。なんと説得力のあることか。当時の私もこの言葉をなんとなく肯定的に捉えていた。というのも、校訓をわざわざ真っ向から否定する根拠は特に思い浮かばなかったし、立派な大人である教職員も含めほとんどの人が正しいと信じているものに対して、ゆとりにどっぷり浸かった高校生が異を唱えること自体が、正しいか正しくないかはさておいていかにも思春期で青くさい感じがしたためだった。
が、今はあえて異を唱えたい。別にハッキリと「間違っている!」と言うつもりはさらさら無い。私が言いたいのは「やってもできない」という諦観の方が、将来の開けた高校生にとっては重要だったのではないか?ということである。もちろん、人生を早々に諦めて絶望する必要などない。むしろ、早めに進むべき道を現実的に選べるようにするためにも、自分の人生の天井をある程度意識すべきだと思う。いうまでもなく人間には個人差があり、向き不向きも違って当然だし、科学的にもそれらは遺伝が深く関わっていることは証明されている。
しかし、日本では「一度始めたことは最後までやり抜くべき、「簡単に諦めてはいけない」という一種の道徳観のようなものがあるように思う。やめること、諦めることは「根性がない」「逃げ」を意味し、本当はもうとっくにやめた方がいいこと(やり続ける必要のないこと)に関しても、「続けること」は「やめること」よりも高い価値が置かれているように感じる。本当にそれは正しいだろうか?「Exit戦略」という言葉があるように、企業にとって(特に欧米)やめることは一種の戦略である。「違っていた」とわかった瞬間に合理的な判断によって戦略的撤退を進める。これは個人の人生にも当てはめられるのでないか?
これまで出会った中で、最も結果を出して最も稼いでいたWさんという人物がいる。具体的にどんな人かと言えば、高級車販売の営業でトップの成績を上げた後にアメリカの大学でMBAを取得し、帰国後には外資系保険会社でマネジャーを務め、これまた国内各支店でトップの成績を上げ、本社のあるニューヨークのタイムズスクエアで最も高いビルの電子広告にトップマネージャーとして顔写真が載った人物である。そんなキラキラキャリアの方に私は思い切って質問をしてみたことがある。(今振り返るととても抽象的な質問だ)
私「今までのキャリアを振り返って一番大事にしてきたこととかありますか?」
Wさん「Quit as much as possible.」
シンプルに一言で答えてくれた。直訳すれば、「できるだけ多くやめなさい」となる。この言葉の本質は、「多くやめるためにはそれ以上に多く始めなければならない」ということである。一見キラキラした綺麗な経歴に見えるが、途中では向いていないと判断してすぐに転職したこともあれば撤退した事業もたくさんあったとのことだ。
「どんな人でも頑張れば、諦めなければなんだってできる!やればできるは魔法の合言葉だ!」
と声高に主張する過激なリベラルは意外なほど巷に多く溢れている。本気でそう信じている人もいるだろうが、中にはビジネスとしてあえて主張する人もいるだろう。こういったフレーズは「儲かる」のである。
あらゆる前提条件(生得的な知能差や体格差)を無視して放たれる「やればできる」という言葉には一種の暴力性があるだろう。そして、「やってもできない」人たちのことを「やる気がない」としてさらに追い詰める。
どうして突然こんな内容の文章を書こうと思ったのか。久しぶりに又吉さんの処女作で芥川賞受賞作でもある『火花』を読み返したのがきっかけだ。『火花』では、主人公が抱える「芸人を続けるか諦めるか」の葛藤が描かれている。
母校の写真
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